lundi 30 septembre 2013

Kikuka no chigiri 「菊花の約」Ugetsu Monogatari 雨月物語

Kikuka no chigiri 「菊花の約」Ugetsu Monogatari 雨月物語. Auteur : Ueda Akinari 上田秋成 (1734-1809). Date de publication : 1776.
Source : Ueda Akinari shū 上田秋成集, Yūhōdō bunko 有朋堂書店, réed. 1931, p. 225-237. Édition électronique du 30 septembre 2013, une relecture.

菊花の約

青青たる春の柳、家園に種うることなかれ。交は輕薄の人と結ぶことなかれ。楊柳茂りやすくとも、秋の初風の吹くに耐へめや。輕薄の人は交やすくして亦速なり。楊柳いくたび春に染れども、輕薄の人は絶えて訪ふ日なし。播磨の國加古の驛に、丈部左門といふ博士あり。清貧を憩ひて、友とする書の外はすべて調度の絮煩を厭ふ。老母あり。孟子の操にゆづらす。常に紡績を事として、左門がこころざしを助く。其委女なるものは、同じ里の佐用氏に養はる。此佐用が家は頗富さかえて有けるが、丈部母子の賢きを慕ひ、娘子を娶りて親族となり、屡事に托て物を餉るといへども、口腹の爲に人を累さんやとて、敢へて承くることなし。一日左門同じ里の何某が許に訪ひて、いにしへ今の物がたりして興ある時に、壁を隔てて人の痛む聲、いともあはれに聞えければ、主に尋ぬるに、あるじ答ふ。これより西の國の人と見ゆるが、伴に後れしよしにて一宿を求らるるに、士家の風ありて卑しからぬと見しままに、逗めまゐらせしに、其夜邪熱劇しく、起臥も自はまかせられぬをいとをしさに、三日四日は過しぬれど、何地の人ともさだかならぬに、主も思ひがけぬ過し出でて、ここち惑ひ侍りぬといふ。左門聞きて、かなしき物がたりにこそ。あるじの心安からぬもさる事にしあれど、病苦の人はしるべなき旅の空に、此疾を憂へ給ふは、わきて胸窮しくおはすべし。其やうをも看ばやといふを、あるじとどめて、瘟病は人を過つ物と聞ゆるから。家童らもあへてかしこに行しめず。立よりて身を害し給ふことなかれ。左門笑うていふ。死生命あり、何の病か人に傳ふべき。これらは愚俗のことばにて、吾們はとらづとて、戸を推して入つも、其人を見るに、あるじがかたりしに違はで、倫の人にはあらじを、病深きと見えて、面は黄に、肌黒く痩せ、古き衾のうへに悶へ臥す。人なつかしげに左門を見て、湯ひとつ惠み給へといふ。左門ちかくよりて、士憂ひ給ふことなかれ。必救ひまゐらすべしとて、あるじと計りて、藥をえらみ、自方を案じ、みづから煮てあたへつも、猶粥をすすめて病を看ること、同胞のごとく、まことに捨てがたきありさまなり。かの武士左門が愛憐の厚きに泪を流して。かくまで漂客を惠み給ふ。死すとも御心に報いたてまつらんといふ。左門諫めて、ちからなきことはな聞え給ひそ。凡疫は日数あり。其ほどをすぎぬれば壽命をあやまたず。吾日日に詣でてつかへまゐらすべしと、實やかに約りつつも、心を用ひて助けけるに。病漸減じてここち清しくおぼえければ、あるじにも念比に詞をつくし、左門が陰徳をたふとみて、其生業をもたづね。己が身の上をもかたりていふ。故出雲の國松江の郷に生長りて。赤穴宗右衛門といふ者なるが、わづかに兵書の旨を察めしによりて、冨田の城主鹽冶掃部介。吾を師としてもの學びたまひしに、近江の佐佐木氏綱に密の使にえらばれて、かの館にとどまるうち、前の城主尼子經久、山中黨をかたらひて、大三十日の夜不慮に城を乘りとりしかば、掃部殿も討死ありしなり。もとより雲州は佐佐木の持國にて、鹽冶は守護代なれば、三澤、三刀屋を助けて。經久を亡したまへとすすむれども、氏綱は外勇にして内怯えたる愚將なれば果さず、かへりて吾を國に逗む。故なき所に永く居らじと、己が身ひとつを竊みて國に還る路に、此疾にかかりて、思ひがけずも師を勞はしむるは。身にあまりたる御恩にこそ。吾半生の命をもて、必ず報いたてまつらん。左門いふ。見る所を忍びざるは、人たるものの心なるべければ、厚き詞ををさむるに故なし。猶逗りていたはり給へと、實ある詞を便にて日比經るままに、物みな平生に邇くぞなりにける。此日比左門はよき友もとめたりとて、日夜交りて物がたりするに、赤穴も諸子百家のことおろおろかたり出でて、問ひわきまふる心愚ならず。兵機のことわりはをさをさしく聞えければ、ひとつとして相ともにたがふ心もなく、かつ感で、かつよろこびて、終に兄弟の盟をなす。赤穴五歳長じたれば、伯氏たるへき禮儀ををさめて、左門にむかひていふ。吾父母に離れまゐらせていとも久し、賢弟が老母は即て吾母なれば、あらたに拜みたてまつらんことを願ふ。老母あはれみてをさなき心を肯け給はんや。左門歡びに堪へず、母なる者常に我が孤獨を憂ふ。信ある言を告げなば齡も延びなんにと。伴ひて家に歸る。老母よろこび迎へて、吾子不才にて、學ぶ所時にあはず、青雲の便りを失ふ。ねがふは捨てずして伯氏たる教を施したまへ。赤穴拜していふ。大丈夫は義を重しとす。功名富貴はいふに足らす。吾いま母公の慈愛をかうむり、賢弟の敬を納むる、何の望かこれに過ぐべきと、よろこびうれしみつつ、又日來をととまりける。きのうけふ咲ぬると見し尾上の花も散りはてて、涼しき風による浪に、とはでもしるき夏の初になりぬ。赤穴、母子にむかひて、吾近江を遁來りしも、雲州の動靜を見んためなれば、一たび下向りてやかて歸來り、菽水の奴に御恩を返したてまつるべし。今のわかれを給へといふ。左門いふ。さあらば兄長いつの時にか歸り給ふへき。赤穴いふ。月日は逝きやすし。おそくとも此秋は過さじ。左門云ふ。秋はいつの日を定めて待つべきや。ねがふは約し給へ。赤穴云ふ。重陽の佳節をもて歸來る日とすべし。左門いふ。兄長必ず此日をあやまりたまふな。一枝の菊花に薄酒を備へて待ちたてまつらんと、互に情をつくして、赤穴は西に歸りけり。あら玉の月日はやく經ゆきて、下枝の茱萸色づき、垣根の野ら菊艶やかに、九月にもなりぬ。九日はいつよりも蚤く起出でて、草の屋の席をはらひ、黄菊白菊二枝三枝小瓶に挿し、嚢をかたぶけて酒飯の設をす。老母いふ。かの八雲たつ國は山陰のはてにありて、ここには百里を隔つると聞けば、今日とも定めがたきに。其來しを見ても物すとも遲からじ。左門云ふ。赤穴は信ある武士なれば必ず約を誤らじ。其人を見てあわたたしからんは、思はんことの恥かしとて。美酒を沽ひ、鮮魚を宰て厨に備ふ。此日や天晴れて、千里に雲のたちゐもなく、草枕旅ゆく人の群群かたりゆくは、けふは誰某がよき京入なる。此度の商物によき徳とるべき祥になんとて過ぐ。五十あまりの武士。廿あまりの同じ出立なる、日和はかばかり好かりしものを。明石より船もとめなば、この朝びらきに、牛窓の門の泊りは追ふべき。
若き男は却物怯して、錢おほく費やすことよといふに、殿の上らせ給ふ時、小豆島より室津わたりし給ふに、なまからきめにあはせ給ふを、從に侍りし者のかたりしを思へば、このほとりの渡は必ず怯ゆべし。な恚みたまひそ。魚が橋の蕎麥ふるまひまうさんにと、いひなぐさめて行く。口とる男の腹だたしげに、此死馬は眼をもはだけぬかと、荷鞍おしなほして追ひもて行く。午時もややかたぶきぬれど、待ちつる人は來らず。西に沈む日に、宿急ぐ足のせはしげなるを見るにも、外の方のみまもられて心醉へるが如し。老母左門をよびて、人の心の秋にはあらずとも、菊の色こきは今日のみかは。歸り來る信だにあらば、空は時雨にうつりゆくとも、何をか怨むべき。入りて臥もして。又翌の日を待つべしとあるに、否みがたく、母をすかして前に臥さしめ、もしやと戸の外に出でて見れば。銀河影きえぎえに、氷輪我のみを照して淋しきに、軒守る犬の吼ゆる聲すみわたり。浦浪の音ぞここもとにたちくるやうなり、月の光も山の際に陰くなれば、今はとて戸を閉てて入らんとするに、ただ看る、おぼろなる黒影の中に人ありて、風の隨來るをあやしと見れば、赤穴宗右衛門なり。踊りあがるここちして、小弟蚤くより待ちて今にいたりぬる。盟たがはで來り給ふ事のうれしさよ。いざ入らせたまへと云ふめれど、只點頭きて物をもいはである。左門前にすすみて、南の窓の下にむかへ、座につかしめ、兄長來りたまふことの遲かりしに。老母も待ちわびて。翌こそと臥所に入らせたまふ。寤させまゐらせんと云へるを。赤穴又頭を搖りてとどめつも、更に物をもいはでぞある。左門云ふ。既に夜を續ぎて來し給ふに、心も倦み足も勞れたまふべし。幸に一杯を酌みて歇息たまへとて、酒をあたため下物を列ねて勸むるに、赤穴袖をもて面を掩ひ、其臭を嫌放くるに似たり。左門云ふ。井臼の力はた欵すに足らざれども、己が心なり。いやしみ給ふことなかれ。赤穴猶答もせで、長嘘をつぎつつ、しばししていふ。賢弟が信ある饗應をなどいなむべき理やあらん。欺くに詞なければ、實をもて告ぐるなり。必ずしもあやしみ給ひそ。吾は陽世の人にあらず。きたなき靈のかりに形を見えつるなり。左門大に驚きて、兄長何ゆゑにこのあやしきことかたり出で給ふや。更に夢ともおぼえ侍らず。赤穴いふ。賢弟とわかれて國にくだりしが、國人大かた經久が勢に服きて、鹽冶の恩を顧みるものなし。從弟なる赤穴丹治富田の城にあるを訪ひしに、利害を説きて吾を經久に見えしむ。假に其詞を容れて、つらつら經久がなす所を見るに、萬夫の雄人に勝れ、よく士卒を習練といへども。智を用ふるに狐疑の心おほくして、腹心爪牙の家の子なし。永く居りて益なきを思ひて、賢弟が菊花の約あることをかたりて去らんとすれば、經久怨める色ありて、丹治に令し、吾を大城の外にはなたずして、遂に今日にいたらしむ。此約にたがふものならば、賢弟吾を何ものとかせんと、ひたすら思沈めども遁るるに方なし。いにしへの人のいふ、人一日に千里をゆくことあたはず、魂よく一日に千里をもゆくと。此ことわりを思出でて、みづから刃に伏し、今夜陰風に乘りてはるばる來り、菊花の約に赴く。此心をあはれみ給へといひをはりて、泪わき出づるが如し。今は永きわかれなり。只母公によくつかへ給へとて、座を立つと見しが、かき消えて見えずなりにける。左門慌忙とどめんとすれば、陰風に眼くらみて行方をしらず。俯向につまづき倒れたるままに、聲を放ちて大に哭く。老母目さめ、驚き立ちて、左門がある所を見れば、座上に酒瓶魚盛りたる皿どもあまた列べたるが中に、臥倒れたるをいそがはしく扶起して、いかにと問へども、只聲を呑て泣く泣くさらに言なし。老母問うていふ。伯氏赤穴が約にたがふを怨るるとならば。明日なんもし來るには言なからんものを。汝かくまでをさなくも愚なるかとつよく諫むるに、左門漸答へていふ。兄長今夜菊花の約に特來る。酒殽をもて迎ふるに、再三辭みたまふて云ふ。しかじかのやうにて約に背くがゆゑに、自刃に伏して、陰魂百里を來るといひて見えずなりぬ。それ故にこそは母の眠をも驚かしたてまつれ。只只赦し給へと潜然と哭入を、老母いふ。牢裏に繋がるる人は夢にも赦さるるを見、渇するものは夢に漿水を飮といへり。汝も亦さる類にやあらん。よく心を靜むべしとあれども、左門頭を搖りて、まことに夢の正なきにあらず。兄長はここもとにこそありつれと、又聲を放げて哭倒る。老母も今は疑はず。相叫びて其夜は哭あかしぬ。明くる日左門母を拜していふ。吾幼きより身を翰墨に托するといへども、國に忠義の聞なく、家に孝信をつくすことあたはず、徒に天地のあひだに生るるのみ。兄長赤穴は一生を信義のために終る。小弟けふより出雲に下り、せめては骨を藏めて信を全うせん。公尊體を保たまうて。しばらくの暇をたまふべし。老母云ふ。吾兒かしこに去るとも、はやく歸りて老が心を休めよ。永く逗りてけふを舊しき日となすことなかれ。左門いふ。生は浮きたる漚のごとく、旦に夕に定めがたくとも、やがて歸りまゐるべしとて、泪を振うて家を出で、佐用氏にゆきて老母の介抱を苦にあつらへ、出雲の國にまかる路に、飢ゑて食を思はず、寒きに衣をわすれてまどろめば、夢にも哭あかしつつ。十日をへて富田の大城にいたりぬ。先赤穴丹治が宅にゆきて、姓名をもていひ入るに、丹治迎へ請じて、翼ある物の告げるにあらで、いかで知らせたまふべき謂なしとしきりに問尋む。左門いふ。士たる者は富貴消息の事ともに論ずべからず。只信義をもて重しとす。伯氏宗右衛門一旦の約をおもんじ、むなしき魂の百里を來るに報いすとて、日夜を逐うて此所にくだりしなり。吾學ぶ所について士に尋ねまゐらすべき旨あり。ねがふは明かに答へ給へかし。昔魏の公叔座病の牀にふしたるに、魏王みづから詣でて、手をとりつも告ぐるは、若諱むべからずのことあらば、誰をして社稷を守らしめんや。吾ために教をのこせとあるに、叔座いふ。商鞅年少しといへども奇才あり。王若この人を用ひ給はずば、これを殺しても境を出すことなかれ、他の國にゆかしめば、必ずも後の禍となるべしと苦に教へて、又商鞅を私にまねき、吾汝をすすむれども、王許さざる色あれば、用ひずばかへりて汝を害したまへと教ふ。是れ君を先にし臣を後にするなり。汝速く他の國に去りて、害を免るべしといへり。この事士と宗右衛門に比へてはいかに。丹治只頭を低れて言なし。左門座をすすみて、伯氏宗右衛門鹽治が舊交を思ひて、尼子に仕へざるは義士なり。士は舊主の鹽治を捨てて、尼子に降りしは、士たる義なし伯氏は菊花の約を重んじ、命を捨てて百里を來しは信ある極なり。士は今尼子に媚びて骨肉の人をくるしめ、此横死をなさしむるは友とする信なし。經久強てとどめたまふとも、舊しき交を思はば、私に商鞅、叔座が信をつくすべきに、只榮利にのみ走りて、士家の風なきは、即尼子の家風なるべし。さるから兄長何故この國に足をとどむべき。吾今信義を重んじて、態態ここに來る。汝は又不義のために汚名をのこせとて、いひもをはらず、拔打に斬りつくれば、一刀にてそこに倒る。家眷ども立騷ぐ間に、はやく逃れ出でて跡なし。尼子經久このよし傳聞きて、兄弟信義の篤きをあはれみ、左門が跡をも強にて追せざるとなり。咨輕薄の人と交はりは結ぶべからずとなん。

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