jeudi 26 septembre 2013

Shiramine 「白峯」Ugetsu Monogatari 雨月物語

Shiramine 「白峯」Ugetsu Monogatari 雨月物語. Auteur : Ueda Akinari 上田秋成 (1734-1809). Date de publication : 1776.
Source : Ueda Akinari shū 上田秋成集, Yūhōdō bunko 有朋堂書店, réed. 1931, p. 213-225. Édition électronique du 26 septembre 2013, une relecture.


雨月物語    卷之一

白峯

あふ坂の關守にゆるされてより、秋こし山の黄葉みすごしがたく、濱千鳥の跡ふみつくる鳴海潟、不盡の高嶺の煙、浮嶋が原、清見が關、大礒小磯の浦浦、むらさき艶ふ武藏野の原、鹽竈の和ぎたる朝げしき、象潟の蜒が苫屋、佐野の舟梁、木曾の棧橋、心のとどまらぬかたぞなきに、猶西の國の歌枕見まほしとて、仁安三年の秋は、葭がちる難波を經て、須磨明石の浦ふく風を身にしめつも、行く行く讃岐の眞尾坂の林といふに、しばらく笻を植む。草枕はるけき旅路の勞にもあらで、觀念修業の便せし庵なりけり。この里ちかき白峰といふ所にこそ、新院の陵ありと聞きて、拜みたてまつらばやと、十月はじめつかた、かの山に登る。松柏は奧ふかく茂りあひて、青雲の輕靡く日すら小雨そぼふるがごとし。兒が嶽といふ嶮しき嶽背に聳ちて、千仭の谷底より雲霧おひのぼれば、咫尺をも鬱悒ここちせらる。木立わづかに間きたる所に、土墩く積みたるが上に、石を三かさねに疊みなしたるが、荊蕀薜葛蘿にうづもれて、うらがなしきを、これならん御墓にやと、心もかきくらまされて、さらに夢現をもわきがたし。現にまのあたりに見奉りしは、紫宸清涼の御座に、朝政きこしめさせ給ふを、百の官人は、かく賢き君ぞとて、詔恐みてつかへまつりし。近衞院に禪りましても、藐姑射の山の瓊の林に禁させ給ふを、思ひきや、麋鹿のかよふ跡のみ見えて、詣でつかふる人もなき深山の荊の下に神がくれたまはんとは。萬乘の君にてわたらせ給ふさへ、宿世の業といふものの、おそろしくも添ひたてまつりて、罪をのがれさせ給はざりしよと、世のはかなきに思ひつづけて涙わき出づるがごとし。終夜供養したてまつらばやと、御墓の前のたひらなる石の上に座をしめて、經文徐に誦しつつも、かつ歌よみてたてまつる。
   
     松山の浪のけしきは變らじをかたなく君はなりまさりけり

猶心怠らず供養す。露いかばかり袂にふかかりけん。日は没りしほとに、山深き夜のさま常ならで、石の牀、木葉の衾いと寒く、神清み、骨冷えて、物とはなしに凄じきここちせらる。月は出でしかと、茂きが林は影をもらさねば、あやなき闇にうらぶれて、眠るともなきに、まさしく圓位圓位とよぶ聲す。眼をひらきてすかし見れば、其形異なる人の、背高く痩おとろへたるが、顔のかたち、着たる衣の色紋も見えで、こなたにむかひて立るを、西行もとより道心の法師なれば、恐ろしともなくて、ここに來たるは誰と答ふ。かの人いふ。前によみつる言葉のかへりこと聞えんとて見えつるなりとて、

    松山の浪にながれてこし船のやかてむなしくなりにけるかな

喜しくも詣でつるよと聞ゆるに、新院の靈なることをしりて、地にぬかづき、涙を流していふ。さりとていかに迷はせ給ふや。濁世を厭離し給ひつる事のうらやましく侍りてこそ、今夜の法施に隨縁したてまつるを、現形し給ふはありがたくも悲しき御心にし侍り。ひたぶるに隔生即忘して、佛果圓滿の位に昇らせ給へと、情を盡して諫奉る。新院呵呵と笑はせ給ひ、汝しらずや。近來の世の亂は朕なす事なり。生きてありし日より、魔道に志をかたぶけて、平治の亂を發さしめ、死て猶朝家に祟をなす。見よ見よ、やがて天が下に大亂を生ぜしめんといふ。西行この詔に涙をとどめて、こは淺ましき御心ばへを承るものかな。君はもとよりも聡明のきこえましませば、王道の理は諦めさせ給ふ、こころみに討ね請すべし。そも保元の御謀叛は、天の神の教へ給ふことわりにも違はじとて、おぼし立せ給ふか。又みづからの人慾より計策り給ふか。詳に告せ給へと奏す。其時院の御けしきかはらせ給ひ、汝きけ。帝位は人の極なり。若し人道上より亂す則は、天の命に應じ、民の望に順うて是を討つ。抑永治の昔、犯せる罪もなきに、父帝の命を恐みて、三歳の體仁に代を讓りし心、人慾深きといふべからず。體仁早世ましては、朕皇子の重仁こそ國しらすべきものをと、朕も人も思ひをりしに、美福門院が妬にさへられて、四の宮の雅仁に代を簒はれしは、深き怨にあらずや。重仁國しらすべき才あり。雅仁何らのうつは物ぞ。人の徳をえらはずも、天が下のことを後宮にかたらひ給ふは、父帝の罪なりし。されど世にあらせ給ふ程は、孝信をまもりて、勤色にも出さざりしを、崩させたまひては何時までありなんと、武きこころざしを發せしなり。臣として君を伐つすら、天に應じ民の望にしたがへば、周八百年の創業となるものを、ましてしるべき位ある身にて、牝鷄の晨する代を取つて代らんに、道を失ふといふべからず。汝家を出でて佛に婬し、未來解脱の利慾を願ふ心より、人道をもて因果に引入れ、堯舜の教へを釋門に混じて朕に説やと、御聲あららかに告せ給ふ。西行いよよ恐るる色もなく、座をすすみて、君が告せたまふ所は、人道のことわりをかりて、慾塵をのがれ給はず。遠く震旦をいふまでもあらず。皇朝の昔譽田の天皇。兄の皇子大鷦鷯の王をおきて、李の皇子兎道の王を日嗣の太子となしたまふ。天皇崩御たまひては、兄弟相讓りて位に昇りたまはず。三歳をわたりても猶果べくもあらぬを、兎道の王深く憂ひ給ひて、豈久しく生きて天が下を煩はしめんやとて、みづから寳算を斷せたまふものから、罷事なくて、兄の皇子御位に即せ給ふ。是れ天業を重じ、孝悌をまもり、忠をつくして人慾なし。堯舜の道といふなるべし。本朝に儒教を尊みて、専王道の輔とするは、兎道の王百濟の王仁を召して學ばせ給ふをはじめなれば、この兄弟の王の御心ぞ、即て漢土の聖の御心ともいふべし。又周の創、武王一たび怒りて、天下の民を安くす。臣として君を弑すといふべからず。仁を賊ひ義を賊む。一夫の紂を誅するなりといふ事、孟子といふ書にありと、人の傳に聞き侍る。されば漢土の書は、經典、史策、詩文にいたるまで渡さざるはなきに、かの孟子の書ばかり、いまだ日本に來らず。此書を積みて來る船は、必しも暴風にあひて沈没むよしをいへり。夫をいかなる故ぞととふに、我國は天照すおほん神の開闢しろしめししより、日嗣の大王絶ることなきを、かく口賢しき教をつたへなば、末の世に神孫を奪ふて、罪なしといふ敵も出づべしと、八百よろづの神の惡くませ給うて、神風を起して船を覆へしたまふと聞く。されば他國の聖の教も、ここの國土にふさはしからぬ事すくなからず。且詩にもいはざるや。兄弟牆に鬩ぐとも外の侮を禦げよと。さるを骨肉の愛を忘れ給ひ、あまさへ一院崩御れたまひて、殯の宮に肌膚もいまだ寒させたまはぬに、御旗なびかせ弓末ふり立て、寶祚をあらそひ給ふは、不孝の罪これより劇しきはあらじ。天下は神器なり。人のわたくしをもて奪ふとも得べからぬ理なるを、たとへ重仁王の即位は民の仰ぎ望む所なりとも、徳を布き和を施し給はで、道ならぬみわざをもて代を亂し給ふ則は、昨日まで君を慕ひしも、けふは忽ち怨敵となりて、本意をも遂げたまはで、いにしへより例なき刑を得給ひて、斯る鄙の國の土とならせ給ふなり。ただただ舊き讐をわすれ給うて、淨土にかへらせたまはんこそ、願はましき叡慮なれと、はばかることなく奏ける。院長嘘をつがせ給ひ、今事を正して罪をとふことわりなきにあらず。されどいかにせん。この島に謫れて、高遠が松山の家に困められ、日に三たびの御膳すすむるよりは、まゐりつかふる者もなし。只天とぶ雁の小夜の枕におとづるるを聞けば、都にや行らんとなつかしく、曉の千鳥の洲崎にさわぐも、心をくだく種となる。鳥の頭は白くなるとも、都には還るべき期もあらねば、定めて海畔の鬼とならんずらん。ひたすら後世のためにとて、五部の大乘經をうつしてけるが、貝鐘の音も聞えぬ荒礒にとどめんもかなし。せめては筆の跡ばかりを、洛の中に入りさせたまへと、仁和寺の御室の許へ、經にそへてよみておくりける。

    濱千鳥跡はみやこに通へども身は松山に音をのみぞなく

しかるに少納言信西がはからひとして、若呪咀の心にやと奏しけるより。そがままに返されしぞうらみなる。いにしへより倭漢士ともに、國をあらそひて、兄弟敵となりし例は珍しからねど、罪深きことかなと思ふより、惡心懺悔の爲にとて寫しぬる御經なるを、いかにささふる者ありとも。親しきを議るべき令にもたがひて、筆の跡だも納れたまはぬ叡慮こそ、今は舊しき讐なるかな。所詮此經を魔道に囘向して、恨をはるかさんと、一すぢにおもひ定て、指を破り血をもて願文をうつし、經とともに志戸の海に沈めてし後は、人にも見えず深く閉ぢこもりて、ひとへに魔王となるべき大願をちかひしが、はた平治の亂ぞ出できぬる。まづ信頼が高き位を望む驕慢の心をさそうて、義朝をかたらはしむ。かの義朝こそ惡き敵なれ。父の爲義をはじめ、同胞の武士は皆朕がために命を捨てしに、他一人朕に弓を挽く。爲朝が勇猛、爲義、忠政が軍配に贏目を見つるに、西南の風に燒討せられ、白川の宮を出でしより、如意が嶽の嶮しきに足を破られ、或は山賎の椎柴をおほひて雨露を凌ぎ、終に擒はれて此の島に謫られしまで、皆義朝が姦しき計策に困しめられしなり。これが報を虎狼の心に障化して、信頼が陰隱謀にかたらはせしかば、地祗に逆ふ罪、武に賢からぬ清盛に遂討たる。且つ父の爲義を弑せし報偪りて。家の子に謀られしは、天神の祟を蒙りしものよ。又少納言信西は常に己を博士ぶりて、人を拒む心の直からぬ。これをさそうて信頼義朝が讐となせしかば、終に家をすてて宇治山の坑に竄れしを、はた探し獲られて、六條河原に梟首らる。これ經をかへせし諛言の罪を治めしなり。それがあまり應保の夏は美福門院が命を窮り、長寛の春は忠通を祟りて、朕も其秋世をさりしかど、猶嗔火熾にして盡きざるままに、終に大魔王となりて、三百餘類の巨魁となる。朕が眷屬のなすところ、人の福を見ては轉して禍とし、世の治るを見ては亂を發さしむ。只清盛が人果大にして、親族氏族ことごとく高き官位につらなり、おのがままなる國政を執行ふといへども、重盛忠義をもて輔くる故、いまだ期いたらず。汝見よ。平氏も亦久しからじ。雅仁朕につらかりしほどは終に報ふべきぞと、御聲いやましに恐しく聞えけり。西行いふ。君かくまで魔界の惡業につながれて、佛土に億萬里を隔給へば、再びいはじとて、只默してむかひ居たりける。時に峯谷ゆすり動きて、風叢林を僵すがごとく、沙石を空に卷上ぐる。見る見る一段の陰火、君が膝の下より燃上りて、山も谷も晝のごとくあきらかなり。光の中につらつら御氣色を見たてまつるに、朱をそそぎたる龍顔に、荊の髮膝にかかるまで亂れ、白眼を吊あげ、熱き嘘をくるしげにつがせ給ふ。御衣は柿色のいたうすすびたるに、手足の爪は獸のごとく生ひのびて、さながら魔王の形あさましくもおそろし。空にむかひて相模相模と叫ばせ給ふ。あと答へて、鳶のごとくの化鳥翔來り、前に伏して詔をまつ。院かの化鳥にむかひたまひ、何ぞはやく重盛が命を奪りて、雅仁清盛を苦しめざる。化鳥こたへていふ。上皇の幸福いまだつきず、重盛が忠信ちかづきがたし。今より支干一周を待たば、重盛が命數既につきなむ。彼死せば一族の幸福此時に亡ぶべし。院手を拍つて怡ばせたまひ、かの讐敵ことごとく此前の海に盡すべしと、御聲谷峯に響きて凄しさ云ふべくもあらず。魔道の淺ましきありさまを見て、涙しのぶに堪へす。復び一首の歌に隨縁の心をすすめ奉る。

    よしや君昔の玉の床とてもかからんのちは何にかはせん

刹利も須陀もかはらぬものをと、心あまりて高らかに吟ひける。此のことばを聞しめして感させ給ふやうなりしが、御面も和ぎ、陰火もややうすく消えゆくほどに、つひに龍體もかきけちたるごとく見えずなれば、化鳥もいづち去きけん跡もなく、十日あまりの月は峯にかくれて、木のくれやみのあやなきに、夢路にやすらふがごとし。ほどなくいなのめの明けゆく空に、朝鳥の音おもしろく鳴わたれば、かさねて金剛經一卷を供養したてまつり、山をくだりて庵に歸り、閑に終夜のことどもを思出づるに、平治の亂よりはしめ、人人の消息年月のたがひなければ、深く愼みて人にもかたり出でず。其後十三年を經て、治承三年の秋、平の重盛病に係りて世を逝ぬれば、平相國入道、君をうらみて、鳥羽の離宮に籠めたてまつり、かさねて福原の茅の宮に困めたてまつる。頼朝東風に競ひおこり、義仲北雪をはらうて出づるに及び、平氏の一門ことごとく西の海に漂ひ、遂に讃岐の海志戸八嶋にいたりて、武きつはものども、おほく鼇魚のはらに葬られ、赤間が關壇の浦にせまりて、幼主海に入らせ給へば、軍將だちも、のこりなく亡びしまで、露たがはざりしぞお恐しくあやしき話柄なりける。其後御庿は玉もて雕り、丹青を彩りなして、稜威を崇めたてまつる。かの國にかよふ人は。必ず幣をささげて齋ひまつるべき御神なりけらし。

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