lundi 30 septembre 2013

Kikuka no chigiri 「菊花の約」Ugetsu Monogatari 雨月物語

Kikuka no chigiri 「菊花の約」Ugetsu Monogatari 雨月物語. Auteur : Ueda Akinari 上田秋成 (1734-1809). Date de publication : 1776.
Source : Ueda Akinari shū 上田秋成集, Yūhōdō bunko 有朋堂書店, réed. 1931, p. 225-237. Édition électronique du 30 septembre 2013, une relecture.

菊花の約

青青たる春の柳、家園に種うることなかれ。交は輕薄の人と結ぶことなかれ。楊柳茂りやすくとも、秋の初風の吹くに耐へめや。輕薄の人は交やすくして亦速なり。楊柳いくたび春に染れども、輕薄の人は絶えて訪ふ日なし。播磨の國加古の驛に、丈部左門といふ博士あり。清貧を憩ひて、友とする書の外はすべて調度の絮煩を厭ふ。老母あり。孟子の操にゆづらす。常に紡績を事として、左門がこころざしを助く。其委女なるものは、同じ里の佐用氏に養はる。此佐用が家は頗富さかえて有けるが、丈部母子の賢きを慕ひ、娘子を娶りて親族となり、屡事に托て物を餉るといへども、口腹の爲に人を累さんやとて、敢へて承くることなし。一日左門同じ里の何某が許に訪ひて、いにしへ今の物がたりして興ある時に、壁を隔てて人の痛む聲、いともあはれに聞えければ、主に尋ぬるに、あるじ答ふ。これより西の國の人と見ゆるが、伴に後れしよしにて一宿を求らるるに、士家の風ありて卑しからぬと見しままに、逗めまゐらせしに、其夜邪熱劇しく、起臥も自はまかせられぬをいとをしさに、三日四日は過しぬれど、何地の人ともさだかならぬに、主も思ひがけぬ過し出でて、ここち惑ひ侍りぬといふ。左門聞きて、かなしき物がたりにこそ。あるじの心安からぬもさる事にしあれど、病苦の人はしるべなき旅の空に、此疾を憂へ給ふは、わきて胸窮しくおはすべし。其やうをも看ばやといふを、あるじとどめて、瘟病は人を過つ物と聞ゆるから。家童らもあへてかしこに行しめず。立よりて身を害し給ふことなかれ。左門笑うていふ。死生命あり、何の病か人に傳ふべき。これらは愚俗のことばにて、吾們はとらづとて、戸を推して入つも、其人を見るに、あるじがかたりしに違はで、倫の人にはあらじを、病深きと見えて、面は黄に、肌黒く痩せ、古き衾のうへに悶へ臥す。人なつかしげに左門を見て、湯ひとつ惠み給へといふ。左門ちかくよりて、士憂ひ給ふことなかれ。必救ひまゐらすべしとて、あるじと計りて、藥をえらみ、自方を案じ、みづから煮てあたへつも、猶粥をすすめて病を看ること、同胞のごとく、まことに捨てがたきありさまなり。かの武士左門が愛憐の厚きに泪を流して。かくまで漂客を惠み給ふ。死すとも御心に報いたてまつらんといふ。左門諫めて、ちからなきことはな聞え給ひそ。凡疫は日数あり。其ほどをすぎぬれば壽命をあやまたず。吾日日に詣でてつかへまゐらすべしと、實やかに約りつつも、心を用ひて助けけるに。病漸減じてここち清しくおぼえければ、あるじにも念比に詞をつくし、左門が陰徳をたふとみて、其生業をもたづね。己が身の上をもかたりていふ。故出雲の國松江の郷に生長りて。赤穴宗右衛門といふ者なるが、わづかに兵書の旨を察めしによりて、冨田の城主鹽冶掃部介。吾を師としてもの學びたまひしに、近江の佐佐木氏綱に密の使にえらばれて、かの館にとどまるうち、前の城主尼子經久、山中黨をかたらひて、大三十日の夜不慮に城を乘りとりしかば、掃部殿も討死ありしなり。もとより雲州は佐佐木の持國にて、鹽冶は守護代なれば、三澤、三刀屋を助けて。經久を亡したまへとすすむれども、氏綱は外勇にして内怯えたる愚將なれば果さず、かへりて吾を國に逗む。故なき所に永く居らじと、己が身ひとつを竊みて國に還る路に、此疾にかかりて、思ひがけずも師を勞はしむるは。身にあまりたる御恩にこそ。吾半生の命をもて、必ず報いたてまつらん。左門いふ。見る所を忍びざるは、人たるものの心なるべければ、厚き詞ををさむるに故なし。猶逗りていたはり給へと、實ある詞を便にて日比經るままに、物みな平生に邇くぞなりにける。此日比左門はよき友もとめたりとて、日夜交りて物がたりするに、赤穴も諸子百家のことおろおろかたり出でて、問ひわきまふる心愚ならず。兵機のことわりはをさをさしく聞えければ、ひとつとして相ともにたがふ心もなく、かつ感で、かつよろこびて、終に兄弟の盟をなす。赤穴五歳長じたれば、伯氏たるへき禮儀ををさめて、左門にむかひていふ。吾父母に離れまゐらせていとも久し、賢弟が老母は即て吾母なれば、あらたに拜みたてまつらんことを願ふ。老母あはれみてをさなき心を肯け給はんや。左門歡びに堪へず、母なる者常に我が孤獨を憂ふ。信ある言を告げなば齡も延びなんにと。伴ひて家に歸る。老母よろこび迎へて、吾子不才にて、學ぶ所時にあはず、青雲の便りを失ふ。ねがふは捨てずして伯氏たる教を施したまへ。赤穴拜していふ。大丈夫は義を重しとす。功名富貴はいふに足らす。吾いま母公の慈愛をかうむり、賢弟の敬を納むる、何の望かこれに過ぐべきと、よろこびうれしみつつ、又日來をととまりける。きのうけふ咲ぬると見し尾上の花も散りはてて、涼しき風による浪に、とはでもしるき夏の初になりぬ。赤穴、母子にむかひて、吾近江を遁來りしも、雲州の動靜を見んためなれば、一たび下向りてやかて歸來り、菽水の奴に御恩を返したてまつるべし。今のわかれを給へといふ。左門いふ。さあらば兄長いつの時にか歸り給ふへき。赤穴いふ。月日は逝きやすし。おそくとも此秋は過さじ。左門云ふ。秋はいつの日を定めて待つべきや。ねがふは約し給へ。赤穴云ふ。重陽の佳節をもて歸來る日とすべし。左門いふ。兄長必ず此日をあやまりたまふな。一枝の菊花に薄酒を備へて待ちたてまつらんと、互に情をつくして、赤穴は西に歸りけり。あら玉の月日はやく經ゆきて、下枝の茱萸色づき、垣根の野ら菊艶やかに、九月にもなりぬ。九日はいつよりも蚤く起出でて、草の屋の席をはらひ、黄菊白菊二枝三枝小瓶に挿し、嚢をかたぶけて酒飯の設をす。老母いふ。かの八雲たつ國は山陰のはてにありて、ここには百里を隔つると聞けば、今日とも定めがたきに。其來しを見ても物すとも遲からじ。左門云ふ。赤穴は信ある武士なれば必ず約を誤らじ。其人を見てあわたたしからんは、思はんことの恥かしとて。美酒を沽ひ、鮮魚を宰て厨に備ふ。此日や天晴れて、千里に雲のたちゐもなく、草枕旅ゆく人の群群かたりゆくは、けふは誰某がよき京入なる。此度の商物によき徳とるべき祥になんとて過ぐ。五十あまりの武士。廿あまりの同じ出立なる、日和はかばかり好かりしものを。明石より船もとめなば、この朝びらきに、牛窓の門の泊りは追ふべき。
若き男は却物怯して、錢おほく費やすことよといふに、殿の上らせ給ふ時、小豆島より室津わたりし給ふに、なまからきめにあはせ給ふを、從に侍りし者のかたりしを思へば、このほとりの渡は必ず怯ゆべし。な恚みたまひそ。魚が橋の蕎麥ふるまひまうさんにと、いひなぐさめて行く。口とる男の腹だたしげに、此死馬は眼をもはだけぬかと、荷鞍おしなほして追ひもて行く。午時もややかたぶきぬれど、待ちつる人は來らず。西に沈む日に、宿急ぐ足のせはしげなるを見るにも、外の方のみまもられて心醉へるが如し。老母左門をよびて、人の心の秋にはあらずとも、菊の色こきは今日のみかは。歸り來る信だにあらば、空は時雨にうつりゆくとも、何をか怨むべき。入りて臥もして。又翌の日を待つべしとあるに、否みがたく、母をすかして前に臥さしめ、もしやと戸の外に出でて見れば。銀河影きえぎえに、氷輪我のみを照して淋しきに、軒守る犬の吼ゆる聲すみわたり。浦浪の音ぞここもとにたちくるやうなり、月の光も山の際に陰くなれば、今はとて戸を閉てて入らんとするに、ただ看る、おぼろなる黒影の中に人ありて、風の隨來るをあやしと見れば、赤穴宗右衛門なり。踊りあがるここちして、小弟蚤くより待ちて今にいたりぬる。盟たがはで來り給ふ事のうれしさよ。いざ入らせたまへと云ふめれど、只點頭きて物をもいはである。左門前にすすみて、南の窓の下にむかへ、座につかしめ、兄長來りたまふことの遲かりしに。老母も待ちわびて。翌こそと臥所に入らせたまふ。寤させまゐらせんと云へるを。赤穴又頭を搖りてとどめつも、更に物をもいはでぞある。左門云ふ。既に夜を續ぎて來し給ふに、心も倦み足も勞れたまふべし。幸に一杯を酌みて歇息たまへとて、酒をあたため下物を列ねて勸むるに、赤穴袖をもて面を掩ひ、其臭を嫌放くるに似たり。左門云ふ。井臼の力はた欵すに足らざれども、己が心なり。いやしみ給ふことなかれ。赤穴猶答もせで、長嘘をつぎつつ、しばししていふ。賢弟が信ある饗應をなどいなむべき理やあらん。欺くに詞なければ、實をもて告ぐるなり。必ずしもあやしみ給ひそ。吾は陽世の人にあらず。きたなき靈のかりに形を見えつるなり。左門大に驚きて、兄長何ゆゑにこのあやしきことかたり出で給ふや。更に夢ともおぼえ侍らず。赤穴いふ。賢弟とわかれて國にくだりしが、國人大かた經久が勢に服きて、鹽冶の恩を顧みるものなし。從弟なる赤穴丹治富田の城にあるを訪ひしに、利害を説きて吾を經久に見えしむ。假に其詞を容れて、つらつら經久がなす所を見るに、萬夫の雄人に勝れ、よく士卒を習練といへども。智を用ふるに狐疑の心おほくして、腹心爪牙の家の子なし。永く居りて益なきを思ひて、賢弟が菊花の約あることをかたりて去らんとすれば、經久怨める色ありて、丹治に令し、吾を大城の外にはなたずして、遂に今日にいたらしむ。此約にたがふものならば、賢弟吾を何ものとかせんと、ひたすら思沈めども遁るるに方なし。いにしへの人のいふ、人一日に千里をゆくことあたはず、魂よく一日に千里をもゆくと。此ことわりを思出でて、みづから刃に伏し、今夜陰風に乘りてはるばる來り、菊花の約に赴く。此心をあはれみ給へといひをはりて、泪わき出づるが如し。今は永きわかれなり。只母公によくつかへ給へとて、座を立つと見しが、かき消えて見えずなりにける。左門慌忙とどめんとすれば、陰風に眼くらみて行方をしらず。俯向につまづき倒れたるままに、聲を放ちて大に哭く。老母目さめ、驚き立ちて、左門がある所を見れば、座上に酒瓶魚盛りたる皿どもあまた列べたるが中に、臥倒れたるをいそがはしく扶起して、いかにと問へども、只聲を呑て泣く泣くさらに言なし。老母問うていふ。伯氏赤穴が約にたがふを怨るるとならば。明日なんもし來るには言なからんものを。汝かくまでをさなくも愚なるかとつよく諫むるに、左門漸答へていふ。兄長今夜菊花の約に特來る。酒殽をもて迎ふるに、再三辭みたまふて云ふ。しかじかのやうにて約に背くがゆゑに、自刃に伏して、陰魂百里を來るといひて見えずなりぬ。それ故にこそは母の眠をも驚かしたてまつれ。只只赦し給へと潜然と哭入を、老母いふ。牢裏に繋がるる人は夢にも赦さるるを見、渇するものは夢に漿水を飮といへり。汝も亦さる類にやあらん。よく心を靜むべしとあれども、左門頭を搖りて、まことに夢の正なきにあらず。兄長はここもとにこそありつれと、又聲を放げて哭倒る。老母も今は疑はず。相叫びて其夜は哭あかしぬ。明くる日左門母を拜していふ。吾幼きより身を翰墨に托するといへども、國に忠義の聞なく、家に孝信をつくすことあたはず、徒に天地のあひだに生るるのみ。兄長赤穴は一生を信義のために終る。小弟けふより出雲に下り、せめては骨を藏めて信を全うせん。公尊體を保たまうて。しばらくの暇をたまふべし。老母云ふ。吾兒かしこに去るとも、はやく歸りて老が心を休めよ。永く逗りてけふを舊しき日となすことなかれ。左門いふ。生は浮きたる漚のごとく、旦に夕に定めがたくとも、やがて歸りまゐるべしとて、泪を振うて家を出で、佐用氏にゆきて老母の介抱を苦にあつらへ、出雲の國にまかる路に、飢ゑて食を思はず、寒きに衣をわすれてまどろめば、夢にも哭あかしつつ。十日をへて富田の大城にいたりぬ。先赤穴丹治が宅にゆきて、姓名をもていひ入るに、丹治迎へ請じて、翼ある物の告げるにあらで、いかで知らせたまふべき謂なしとしきりに問尋む。左門いふ。士たる者は富貴消息の事ともに論ずべからず。只信義をもて重しとす。伯氏宗右衛門一旦の約をおもんじ、むなしき魂の百里を來るに報いすとて、日夜を逐うて此所にくだりしなり。吾學ぶ所について士に尋ねまゐらすべき旨あり。ねがふは明かに答へ給へかし。昔魏の公叔座病の牀にふしたるに、魏王みづから詣でて、手をとりつも告ぐるは、若諱むべからずのことあらば、誰をして社稷を守らしめんや。吾ために教をのこせとあるに、叔座いふ。商鞅年少しといへども奇才あり。王若この人を用ひ給はずば、これを殺しても境を出すことなかれ、他の國にゆかしめば、必ずも後の禍となるべしと苦に教へて、又商鞅を私にまねき、吾汝をすすむれども、王許さざる色あれば、用ひずばかへりて汝を害したまへと教ふ。是れ君を先にし臣を後にするなり。汝速く他の國に去りて、害を免るべしといへり。この事士と宗右衛門に比へてはいかに。丹治只頭を低れて言なし。左門座をすすみて、伯氏宗右衛門鹽治が舊交を思ひて、尼子に仕へざるは義士なり。士は舊主の鹽治を捨てて、尼子に降りしは、士たる義なし伯氏は菊花の約を重んじ、命を捨てて百里を來しは信ある極なり。士は今尼子に媚びて骨肉の人をくるしめ、此横死をなさしむるは友とする信なし。經久強てとどめたまふとも、舊しき交を思はば、私に商鞅、叔座が信をつくすべきに、只榮利にのみ走りて、士家の風なきは、即尼子の家風なるべし。さるから兄長何故この國に足をとどむべき。吾今信義を重んじて、態態ここに來る。汝は又不義のために汚名をのこせとて、いひもをはらず、拔打に斬りつくれば、一刀にてそこに倒る。家眷ども立騷ぐ間に、はやく逃れ出でて跡なし。尼子經久このよし傳聞きて、兄弟信義の篤きをあはれみ、左門が跡をも強にて追せざるとなり。咨輕薄の人と交はりは結ぶべからずとなん。

jeudi 26 septembre 2013

Shiramine 「白峯」Ugetsu Monogatari 雨月物語

Shiramine 「白峯」Ugetsu Monogatari 雨月物語. Auteur : Ueda Akinari 上田秋成 (1734-1809). Date de publication : 1776.
Source : Ueda Akinari shū 上田秋成集, Yūhōdō bunko 有朋堂書店, réed. 1931, p. 213-225. Édition électronique du 26 septembre 2013, une relecture.


雨月物語    卷之一

白峯

あふ坂の關守にゆるされてより、秋こし山の黄葉みすごしがたく、濱千鳥の跡ふみつくる鳴海潟、不盡の高嶺の煙、浮嶋が原、清見が關、大礒小磯の浦浦、むらさき艶ふ武藏野の原、鹽竈の和ぎたる朝げしき、象潟の蜒が苫屋、佐野の舟梁、木曾の棧橋、心のとどまらぬかたぞなきに、猶西の國の歌枕見まほしとて、仁安三年の秋は、葭がちる難波を經て、須磨明石の浦ふく風を身にしめつも、行く行く讃岐の眞尾坂の林といふに、しばらく笻を植む。草枕はるけき旅路の勞にもあらで、觀念修業の便せし庵なりけり。この里ちかき白峰といふ所にこそ、新院の陵ありと聞きて、拜みたてまつらばやと、十月はじめつかた、かの山に登る。松柏は奧ふかく茂りあひて、青雲の輕靡く日すら小雨そぼふるがごとし。兒が嶽といふ嶮しき嶽背に聳ちて、千仭の谷底より雲霧おひのぼれば、咫尺をも鬱悒ここちせらる。木立わづかに間きたる所に、土墩く積みたるが上に、石を三かさねに疊みなしたるが、荊蕀薜葛蘿にうづもれて、うらがなしきを、これならん御墓にやと、心もかきくらまされて、さらに夢現をもわきがたし。現にまのあたりに見奉りしは、紫宸清涼の御座に、朝政きこしめさせ給ふを、百の官人は、かく賢き君ぞとて、詔恐みてつかへまつりし。近衞院に禪りましても、藐姑射の山の瓊の林に禁させ給ふを、思ひきや、麋鹿のかよふ跡のみ見えて、詣でつかふる人もなき深山の荊の下に神がくれたまはんとは。萬乘の君にてわたらせ給ふさへ、宿世の業といふものの、おそろしくも添ひたてまつりて、罪をのがれさせ給はざりしよと、世のはかなきに思ひつづけて涙わき出づるがごとし。終夜供養したてまつらばやと、御墓の前のたひらなる石の上に座をしめて、經文徐に誦しつつも、かつ歌よみてたてまつる。
   
     松山の浪のけしきは變らじをかたなく君はなりまさりけり

猶心怠らず供養す。露いかばかり袂にふかかりけん。日は没りしほとに、山深き夜のさま常ならで、石の牀、木葉の衾いと寒く、神清み、骨冷えて、物とはなしに凄じきここちせらる。月は出でしかと、茂きが林は影をもらさねば、あやなき闇にうらぶれて、眠るともなきに、まさしく圓位圓位とよぶ聲す。眼をひらきてすかし見れば、其形異なる人の、背高く痩おとろへたるが、顔のかたち、着たる衣の色紋も見えで、こなたにむかひて立るを、西行もとより道心の法師なれば、恐ろしともなくて、ここに來たるは誰と答ふ。かの人いふ。前によみつる言葉のかへりこと聞えんとて見えつるなりとて、

    松山の浪にながれてこし船のやかてむなしくなりにけるかな

喜しくも詣でつるよと聞ゆるに、新院の靈なることをしりて、地にぬかづき、涙を流していふ。さりとていかに迷はせ給ふや。濁世を厭離し給ひつる事のうらやましく侍りてこそ、今夜の法施に隨縁したてまつるを、現形し給ふはありがたくも悲しき御心にし侍り。ひたぶるに隔生即忘して、佛果圓滿の位に昇らせ給へと、情を盡して諫奉る。新院呵呵と笑はせ給ひ、汝しらずや。近來の世の亂は朕なす事なり。生きてありし日より、魔道に志をかたぶけて、平治の亂を發さしめ、死て猶朝家に祟をなす。見よ見よ、やがて天が下に大亂を生ぜしめんといふ。西行この詔に涙をとどめて、こは淺ましき御心ばへを承るものかな。君はもとよりも聡明のきこえましませば、王道の理は諦めさせ給ふ、こころみに討ね請すべし。そも保元の御謀叛は、天の神の教へ給ふことわりにも違はじとて、おぼし立せ給ふか。又みづからの人慾より計策り給ふか。詳に告せ給へと奏す。其時院の御けしきかはらせ給ひ、汝きけ。帝位は人の極なり。若し人道上より亂す則は、天の命に應じ、民の望に順うて是を討つ。抑永治の昔、犯せる罪もなきに、父帝の命を恐みて、三歳の體仁に代を讓りし心、人慾深きといふべからず。體仁早世ましては、朕皇子の重仁こそ國しらすべきものをと、朕も人も思ひをりしに、美福門院が妬にさへられて、四の宮の雅仁に代を簒はれしは、深き怨にあらずや。重仁國しらすべき才あり。雅仁何らのうつは物ぞ。人の徳をえらはずも、天が下のことを後宮にかたらひ給ふは、父帝の罪なりし。されど世にあらせ給ふ程は、孝信をまもりて、勤色にも出さざりしを、崩させたまひては何時までありなんと、武きこころざしを發せしなり。臣として君を伐つすら、天に應じ民の望にしたがへば、周八百年の創業となるものを、ましてしるべき位ある身にて、牝鷄の晨する代を取つて代らんに、道を失ふといふべからず。汝家を出でて佛に婬し、未來解脱の利慾を願ふ心より、人道をもて因果に引入れ、堯舜の教へを釋門に混じて朕に説やと、御聲あららかに告せ給ふ。西行いよよ恐るる色もなく、座をすすみて、君が告せたまふ所は、人道のことわりをかりて、慾塵をのがれ給はず。遠く震旦をいふまでもあらず。皇朝の昔譽田の天皇。兄の皇子大鷦鷯の王をおきて、李の皇子兎道の王を日嗣の太子となしたまふ。天皇崩御たまひては、兄弟相讓りて位に昇りたまはず。三歳をわたりても猶果べくもあらぬを、兎道の王深く憂ひ給ひて、豈久しく生きて天が下を煩はしめんやとて、みづから寳算を斷せたまふものから、罷事なくて、兄の皇子御位に即せ給ふ。是れ天業を重じ、孝悌をまもり、忠をつくして人慾なし。堯舜の道といふなるべし。本朝に儒教を尊みて、専王道の輔とするは、兎道の王百濟の王仁を召して學ばせ給ふをはじめなれば、この兄弟の王の御心ぞ、即て漢土の聖の御心ともいふべし。又周の創、武王一たび怒りて、天下の民を安くす。臣として君を弑すといふべからず。仁を賊ひ義を賊む。一夫の紂を誅するなりといふ事、孟子といふ書にありと、人の傳に聞き侍る。されば漢土の書は、經典、史策、詩文にいたるまで渡さざるはなきに、かの孟子の書ばかり、いまだ日本に來らず。此書を積みて來る船は、必しも暴風にあひて沈没むよしをいへり。夫をいかなる故ぞととふに、我國は天照すおほん神の開闢しろしめししより、日嗣の大王絶ることなきを、かく口賢しき教をつたへなば、末の世に神孫を奪ふて、罪なしといふ敵も出づべしと、八百よろづの神の惡くませ給うて、神風を起して船を覆へしたまふと聞く。されば他國の聖の教も、ここの國土にふさはしからぬ事すくなからず。且詩にもいはざるや。兄弟牆に鬩ぐとも外の侮を禦げよと。さるを骨肉の愛を忘れ給ひ、あまさへ一院崩御れたまひて、殯の宮に肌膚もいまだ寒させたまはぬに、御旗なびかせ弓末ふり立て、寶祚をあらそひ給ふは、不孝の罪これより劇しきはあらじ。天下は神器なり。人のわたくしをもて奪ふとも得べからぬ理なるを、たとへ重仁王の即位は民の仰ぎ望む所なりとも、徳を布き和を施し給はで、道ならぬみわざをもて代を亂し給ふ則は、昨日まで君を慕ひしも、けふは忽ち怨敵となりて、本意をも遂げたまはで、いにしへより例なき刑を得給ひて、斯る鄙の國の土とならせ給ふなり。ただただ舊き讐をわすれ給うて、淨土にかへらせたまはんこそ、願はましき叡慮なれと、はばかることなく奏ける。院長嘘をつがせ給ひ、今事を正して罪をとふことわりなきにあらず。されどいかにせん。この島に謫れて、高遠が松山の家に困められ、日に三たびの御膳すすむるよりは、まゐりつかふる者もなし。只天とぶ雁の小夜の枕におとづるるを聞けば、都にや行らんとなつかしく、曉の千鳥の洲崎にさわぐも、心をくだく種となる。鳥の頭は白くなるとも、都には還るべき期もあらねば、定めて海畔の鬼とならんずらん。ひたすら後世のためにとて、五部の大乘經をうつしてけるが、貝鐘の音も聞えぬ荒礒にとどめんもかなし。せめては筆の跡ばかりを、洛の中に入りさせたまへと、仁和寺の御室の許へ、經にそへてよみておくりける。

    濱千鳥跡はみやこに通へども身は松山に音をのみぞなく

しかるに少納言信西がはからひとして、若呪咀の心にやと奏しけるより。そがままに返されしぞうらみなる。いにしへより倭漢士ともに、國をあらそひて、兄弟敵となりし例は珍しからねど、罪深きことかなと思ふより、惡心懺悔の爲にとて寫しぬる御經なるを、いかにささふる者ありとも。親しきを議るべき令にもたがひて、筆の跡だも納れたまはぬ叡慮こそ、今は舊しき讐なるかな。所詮此經を魔道に囘向して、恨をはるかさんと、一すぢにおもひ定て、指を破り血をもて願文をうつし、經とともに志戸の海に沈めてし後は、人にも見えず深く閉ぢこもりて、ひとへに魔王となるべき大願をちかひしが、はた平治の亂ぞ出できぬる。まづ信頼が高き位を望む驕慢の心をさそうて、義朝をかたらはしむ。かの義朝こそ惡き敵なれ。父の爲義をはじめ、同胞の武士は皆朕がために命を捨てしに、他一人朕に弓を挽く。爲朝が勇猛、爲義、忠政が軍配に贏目を見つるに、西南の風に燒討せられ、白川の宮を出でしより、如意が嶽の嶮しきに足を破られ、或は山賎の椎柴をおほひて雨露を凌ぎ、終に擒はれて此の島に謫られしまで、皆義朝が姦しき計策に困しめられしなり。これが報を虎狼の心に障化して、信頼が陰隱謀にかたらはせしかば、地祗に逆ふ罪、武に賢からぬ清盛に遂討たる。且つ父の爲義を弑せし報偪りて。家の子に謀られしは、天神の祟を蒙りしものよ。又少納言信西は常に己を博士ぶりて、人を拒む心の直からぬ。これをさそうて信頼義朝が讐となせしかば、終に家をすてて宇治山の坑に竄れしを、はた探し獲られて、六條河原に梟首らる。これ經をかへせし諛言の罪を治めしなり。それがあまり應保の夏は美福門院が命を窮り、長寛の春は忠通を祟りて、朕も其秋世をさりしかど、猶嗔火熾にして盡きざるままに、終に大魔王となりて、三百餘類の巨魁となる。朕が眷屬のなすところ、人の福を見ては轉して禍とし、世の治るを見ては亂を發さしむ。只清盛が人果大にして、親族氏族ことごとく高き官位につらなり、おのがままなる國政を執行ふといへども、重盛忠義をもて輔くる故、いまだ期いたらず。汝見よ。平氏も亦久しからじ。雅仁朕につらかりしほどは終に報ふべきぞと、御聲いやましに恐しく聞えけり。西行いふ。君かくまで魔界の惡業につながれて、佛土に億萬里を隔給へば、再びいはじとて、只默してむかひ居たりける。時に峯谷ゆすり動きて、風叢林を僵すがごとく、沙石を空に卷上ぐる。見る見る一段の陰火、君が膝の下より燃上りて、山も谷も晝のごとくあきらかなり。光の中につらつら御氣色を見たてまつるに、朱をそそぎたる龍顔に、荊の髮膝にかかるまで亂れ、白眼を吊あげ、熱き嘘をくるしげにつがせ給ふ。御衣は柿色のいたうすすびたるに、手足の爪は獸のごとく生ひのびて、さながら魔王の形あさましくもおそろし。空にむかひて相模相模と叫ばせ給ふ。あと答へて、鳶のごとくの化鳥翔來り、前に伏して詔をまつ。院かの化鳥にむかひたまひ、何ぞはやく重盛が命を奪りて、雅仁清盛を苦しめざる。化鳥こたへていふ。上皇の幸福いまだつきず、重盛が忠信ちかづきがたし。今より支干一周を待たば、重盛が命數既につきなむ。彼死せば一族の幸福此時に亡ぶべし。院手を拍つて怡ばせたまひ、かの讐敵ことごとく此前の海に盡すべしと、御聲谷峯に響きて凄しさ云ふべくもあらず。魔道の淺ましきありさまを見て、涙しのぶに堪へす。復び一首の歌に隨縁の心をすすめ奉る。

    よしや君昔の玉の床とてもかからんのちは何にかはせん

刹利も須陀もかはらぬものをと、心あまりて高らかに吟ひける。此のことばを聞しめして感させ給ふやうなりしが、御面も和ぎ、陰火もややうすく消えゆくほどに、つひに龍體もかきけちたるごとく見えずなれば、化鳥もいづち去きけん跡もなく、十日あまりの月は峯にかくれて、木のくれやみのあやなきに、夢路にやすらふがごとし。ほどなくいなのめの明けゆく空に、朝鳥の音おもしろく鳴わたれば、かさねて金剛經一卷を供養したてまつり、山をくだりて庵に歸り、閑に終夜のことどもを思出づるに、平治の亂よりはしめ、人人の消息年月のたがひなければ、深く愼みて人にもかたり出でず。其後十三年を經て、治承三年の秋、平の重盛病に係りて世を逝ぬれば、平相國入道、君をうらみて、鳥羽の離宮に籠めたてまつり、かさねて福原の茅の宮に困めたてまつる。頼朝東風に競ひおこり、義仲北雪をはらうて出づるに及び、平氏の一門ことごとく西の海に漂ひ、遂に讃岐の海志戸八嶋にいたりて、武きつはものども、おほく鼇魚のはらに葬られ、赤間が關壇の浦にせまりて、幼主海に入らせ給へば、軍將だちも、のこりなく亡びしまで、露たがはざりしぞお恐しくあやしき話柄なりける。其後御庿は玉もて雕り、丹青を彩りなして、稜威を崇めたてまつる。かの國にかよふ人は。必ず幣をささげて齋ひまつるべき御神なりけらし。

jeudi 5 septembre 2013

Nichiiki tōjō shoso den 日域洞上諸祖傳

Nichiiki tōjō shoso den 日域洞上諸祖傳. Auteur : Tangen Jichō 湛元自澄 (d. 1699), école sōtō. Date de publication : 1694. 
Source : Dainihon bukkyō zenshō 大日本佛教全書, Tōkyō, Bussho kankōkai 佛書刋行會, rééd. 1979, Vol. 110, p. 1-57. Style chinois (kanbun). 
Édition électronique du 5 septembre 2013 : marques de retour omises, cinq caractères manquants au format unicode U22DFE, U2851D, U26DBA, U2972F, U2B55F, une relecture.


日域洞上諸祖二卷


日域洞上諸祖傳序

靈山正脈祖祖相承到曹溪。曹溪分成五派。五派流傳周支那。吾永平元禪師截海入宋。直得太白淨和尚心印而東歸。初闘曹洞正宗於日域。自後燈燈續焔能爲人天眼目者不可枚擧。然年代寢邈。而傳記遺佚。難識其行實之大全。故雖近世有僧史之所録。僅不過十員耳。豈可不惜乎。余不揣顓蒙。蘊續豹之志者久矣。或蒐尋之陳篇。或咨質之遺老。凡得先徳之語句行實其有所據者。則雖一言一行。輙隨而採收之。合七十員。離爲二卷。題曰日域洞上諸祖傳。是亦百千之十一也。其如別源月篷二師。雖非永平末裔。然本朝洞門之英士也。故同載之。已而鋟之梓。欲永不湮沒。彼來有大手碩筆。改削其非。増益其遺。以發揮先輩幽徳潜光。而教後學見之奮志力追此道。則豈不慶幸乎。
 旹
元祿癸酉年結夏日
            海雪住持比丘自澄序


日域洞上諸祖傳總目録

  卷之上
永平寺道元禪師傳
永平寺弧雲奘禪師傳
僧海禪師傳
永興寺詮慧禪師傳
大乘寺徹通介禪師傳
寶慶寺寂圓禪師傳
義準禪師傳
總持寺瑩山瑾禪師傳
大慈寺寒巖尹禪師傳
寶慶寺義雲禪師傳
總持寺峩山碩禪師傳
大乘寺明峯哲禪師傳
佛陀寺太源眞禪師傳
永澤寺通幻靈禪師傳
玅應寺大徹令禪師傳
定光寺實峯秀禪師傳
泉谿寺玄翁玅禪師傳
祇陀寺大智禪師傳
弘祥寺別源旨禪師傳
壽勝寺月篷見禪師傳
龍澤寺梅山本禪師傳
補巖寺了堂眞禪師傳
玉林寺無著融禪師傳
最乘寺了菴明禪師傳
福昌寺石屋梁禪師傳
禪林寺普濟救禪師傳
  
卷之下
興禪寺不見見禪師傳
慈眼寺天眞性禪師傳
正眼寺大鷹祐禪師傳
大光寺天徳貞禪師傳
願成寺芳菴嚴禪師傳
桂林寺竺山僊禪師傳
向陽寺大等祐禪師傳
泉谿寺齡山延禪師傳
大洞院如仲誾禪師傳
耕雲寺傑堂勝禪師傳
佛陀寺太容清禪師傳
補陀寺無極徹禪師傳
太寧寺竹居猷禪師傳
泰雲寺覺隱本禪師傳
龍興寺希明良禪師傳
圓通寺英仲俊禪師傳
正眼寺天先命禪師傳
永興寺無聞音禪師傳
少林寺嫩桂榮禪師傳
盛景寺昌菴丰禪師傳
種月寺南英宗禪師傳
雙林寺月江文禪師傳
龍文寺器之璠禪師傳
龍興寺大見龍禪師傳
圓通寺牧翁欽禪師傳
龍谿院茂林繁禪師傳
乾坤院川僧濟禪師傳
報泰寺華叟萼禪師傳
雙林寺一州伊禪師傳
眞如寺密山嚴禪師傳
新豐寺天叟寅禪師傳
心月寺桃菴洞禪師傳
龍谿院盧嶽都禪師傳
洞松寺崇芝岱禪師傳
福嚴寺月泉印禪師傳
大中寺快菴慶禪師傳
林泉寺曇英應禪師傳
洞泉寺陳叟遵禪師傳
淨眼寺大空虎禪師傳
福嚴寺盛禪奭禪師傳
大中寺培芝悦禪師傳
光嚴寺東海洋禪師傳
泉龍院克補嶷禪師傳
全久院光國玉禪師傳

日域洞上諸祖傳總目録 終


日域洞上諸祖傳卷之上       

海雲住持比丘堪元 自澄撰

永平寺道元禪師傳
道元禪師。初名希玄。姓源。京兆人。村上天皇九世孫。亞相通親公之子。母攝政九條基房公之女也。師處于胎十有三月。及誕祥光觸室。異香氤氲。自幻穎悟邁同倫。相者見而駭歎曰。此兒骨相秀異。七處平滿。眼有重瞳非凡器。必爲人天師也。只恐父母不終天年。其冬冬十月父通親薨。自後母子共被養于基房第。四歳讀李嶠百詠。七歳讀毛詩左傳。自此閲一切經史。不受師訓。自能通曉。名卿鉅公稱曰神童。八歳母亡。果如相者言。師居喪盡其孝。毎觀世相無常。有脱自求法之志。九歳閲倶舍論。或問其義。則辯如瓶瀉。基房公見其氣宇非常。欲爲嗣子。師心不許之。年十三遁出洛城。謁舅氏良觀法師於睿嶽。觀愕然問。汝何故來。師曰。我母及歿乃命曰。汝出家度父母矣。願學出世法。以酬罔極觀聞不逆也。基房亦知其不可覊絆許之。即就横川首楞嚴院。禮座主公圓剃染。時年十有四矣。尋登壇受具。通貫三學。粹於台教。宿師多下之。十八歳兩閲大藏。究顯密奧旨。有疑未決。投三井公胤僧正叩焉。胤曰。此旨幽深。雖有成説。恐未盡善。聞大宋有傳佛心印者。乃能釋子疑矣。因抵建仁參明菴西公。公一見直以大器期之。貞應二年隨商舶。入宋抵明州。乃寧宗嘉定十六年也。徑登太白謁派無際。際容之。挂搭入室。衆以其外域之僧且年少。位列新戒。師上表于朝廷。力爭之。朝議以國有大小。不可不別。師上表者三。謂娑婆世界皆釋迦如來化土。一切衆生皆是佛子。梵網經云。先受戒者。在先坐。後受戒者。在後坐。曾何以國之大小。而別之乎。朝廷乃降旨曰。和僧所申有理。須依臘次。自爾名聞朝野。未幾辭去。參方首入雙徑。禮琰浙翁於明月堂。琰即問曰。幾時到此間。師曰。四月。琰曰。隨群恁來。師曰。不隨群恁麼來時作麼生。琰曰。也是隨群恁麼來。師曰。即是隨群恁麼來作麼生是。琰掌一掌曰。這多口阿師。師曰。多口阿師即不無作麼生是。琰曰。且坐喫茶繼謁宗月月堂無象等諸大老。到問答機縁有僧老璡者。語師曰。子已參諸名宿。然今具大眼目。宗匠者。只長翁淨公也。子欲了己事。往見勿後。于時寧宗以淨公道價高當時。詔董天童席。師驩然再登太白。翁相見禮節異。常有丹知客。問其故。翁曰。前夜夢悟本大師至。此子非本之後身歟。師因傾誠陳求法之故。翁聞之歎嘉甚。師於是日夜勉勵。至忘飢凍者。將及兩歳。翁一夜巡堂次見僧坐睡。責之曰。參禪須身心脱落。只管打睡爲什麼。師從傍聞之豁然大悟。天明入方丈燒香。翁曰。燒香爲什麼。師曰。身心脱落來。翁曰。身心脱落脱落身心。師曰。和尚莫亂印某甲。翁曰。我不亂印汝。師曰。如何是不亂印底。翁曰。脱落脱落。時福州廣平侍者曰。外國人得恁麼地非細事也。翁曰。合取狗口。師珍重而出。由是服勤四載。日増智證。盡得其蘊。師偶有江西之行暮抵荒村値一虎馳至。師攛向拄杖。拄杖忽化龍。與鬪虎遂怖走。黎明一童子來曰。師當歸本國。竪無勝幢。唱直指之道。莫滯於茲。師因問。卿謂誰。曰。我乃韋將軍也。言訖不見。師直趨太白辭翁。翁付以芙蓉楷祖法衣寶鏡三昧五位顯訣并自賛頂相曰。以儞異域人授此衣爲法信。歸國布化。廣利人天。莫住城邑聚落。須居深山幽谷。時機未稔。接取一箇半箇。嗣續吾宗。勿令斷絶。師薄暮習碧巖集繕寫之。鷄鳴後白衣老翁來乞加助許之。未到明相竟書功。師投筆問其姓名則曰。日域男女元神也。倐然失其所在。因知白山明神矣。寶慶三年冬解纜發舶。天寒白雪霏霏川。忽有神人。現船舷曰。弟子龍天也。在支那曰招寶七郎大權修理菩薩。知師佩祖印還郷。我隨護正法師曰。卿能易形乎。乃化爲三寸許白蛇。延縁入鉢嚢中屈蟠。又海風俄惡。波濤怒鼓。一船無人色。師誦普門品。忽補陀大士乘蓮葉。泛海上。少頃風波恬如也。以故孤帆無恙。速著肥之後州河尻。實安貞元年丁亥也。乃入上都寓建仁。天福癸巳春。尼大師弘誓院正覺等相攸於洛南深艸里。營構大禪苑。名觀音導利院興聖寶林寺。即請師爲開山第一祖。嘉禎丙申冬十月十五日進院上堂曰。山僧歴叢林不多。只是等間見天童先師。當下認得眼横鼻直。不被人瞞。便乃空手還郷。所以一毫無佛法。任運且延時。朝朝日東出。夜夜月沈西。雲收山骨露。雨過四山低。必竟如何。良久云。三年逢一閏。鷄向五更啼。自後玄侶奔湊如水赴壑。王公大臣仰止高風。皆盡師敬之節。懷奘僧海詮慧等師神足。而大龍象也。由是法席之盛卓冠天下。由良覺心聞師煽化來參。得磋磨之功。又受菩薩戒。寛元癸卯夏。師爲退休之計。於是一時公卿施卓錫之地。延師者十有餘人也。波多野雲州太守義重得勝地于越之志比。堅請師。師既至。見其境幽邃有終焉之志。居未幾。天下宿衲麏至。明年秋義重剏大佛寺。已而開堂。説法大振玄風。其叢規一。則天童也。扶桑禪林規範。至師集大成者也。當進院日有山神出現。端氣靄然。因號山曰吉祥。丙午夏改大佛。曰永平。漢永平中佛法始至中國。師自以爲。正法今始東傳。故擧其年號。以名寺云。後嵯峨帝聽師道譽。賜以紫衣徽號。師再三力辭不許。謝睿恩。獻偈曰。永平雖山淺。勅命重重重。卻被猿鶴笑。紫衣一老翁。上嘉歎久之。師乃奉之高閣。終其身未嘗挂體。寶治元年秋八月。鎌倉副元帥平時頼盡禮迎師。師入相陽。時頼執弟子禮。旦夕問道。又受菩薩戒。敬崇日熾。東方道俗駢闐來謁。時頼新建伽藍請師。師不就。翌年杖錫還越。於是以六條保充山厨供。謝不受。宋隆蘭谿。曾在支那見師法語等。又東渡寓博多。聞高風致書。其略云。道隆悚息。上啓永平開山大佛堂上禪師座下。金風普扇。玉字高寒。恭惟坐鎭名刹。警悟人天。或日某僧出示和尚法語并偈頌等。捧而誦之。再三恍如面晤。雖路隔大光明藏中了無間隔。春暮附舟抵博多。聞近年遷於深山窮谷。以此道開示後昆。不欲與朱門豪戸爲友。可見存上古風規。使人攀企不已云云。師答書云。今年八月被檀越勾引。忽到相州鎌倉郡。東西山川二千餘里。嚮風之至一日三秋。承聞和尚既到王城。時之運也。人之幸也。迢迢萬里航海而來。一如普通遠年之儀。云云。本州有一婦人。其性酷姖。既死化蛇。師憐之授菩薩戒。便現男子形。稽首拜手。騰空而去。三年春立羅漢供會。時應眞放光。降臨于長松上。人皆歎未曾有勝會。又行菩薩大戒布薩。規式嚴肅。見聞信順。建長五年夏示微恙。王公親族遣使迎之。仲秋單五。命駕入洛。館西洞院。緇素雲會。瞻禮無虚略。師一眞慈。隨機設化。上使官醫眎病。語笑如平時。八月二十八日夜澡浴整衣。索筆書偈曰。五十四年。照第一天。打箇𨁝跳。觸破大千。咦渾身無處覓活陷黄泉。投筆怡然坐化。朝野聞訃。無不嗟慟者。即遷龕於興聖。留三日。顏貌如生。室有異香。闍維得設利者無數。季秋初六日。門弟子收靈骨。塔于永平。師以正治二年庚申正月二日生。世壽五十有四。僧臘四十有一。嘗著正法眼藏叢林清規等書。竝行于世。又有語録。其徒義尹攜之入宋土。無外遠爲序引。靈隱退耕。徑山虚堂。倶爲題跋。其爲人所重如此。師生平愼許可。故嗣法弟子僅懷奘僧海詮慧三人而已。剃度弟子餘三百人。其歸依受戒者。指不勝屈也。  

永平寺孤雲奘禪師傳
師諱懷奘。號孤雲。洛陽人。九條相國爲通公之曾孫。鳥養中納言爲實公之孫也。以建久九年生於藤氏。自幼不喜與俗雜居。遂從横川圓能剃落。年二十一登壇受具。博學止觀。法相。倶舍。成實。三論。究其源底。兼修淨土法門。一日喟然嘆曰。直饒普及三藏十二部。説法如雲如雨。豈免生死乎。去抵談岑。謁覺晏師。聞見性成佛之旨。有朝閲首楞嚴經。至頻伽瓶喩有省。晏稱賞之。於是儕輩靡不推重。時道元禪師歸國。寓洛之建仁。師徃見之。於元公言下知有機不發。禮辭而遊諸方。文暦甲午冬再參元公於深艸。愈見牆仭之高。而易服親灸焉。元公容爲侍者。其翌年秋八月朢。受菩薩戒。元一日示衆擧一毫穿衆穴因縁。師言下領悟即。禮拜。元問汝見什麼道理。便禮拜。師云。不問一毫。如何是衆穴。元微笑曰。穿卻了也。師再拜而退。元肯之。自此斧搜鑿索。盡得元之祕矣。師爲首座時擧立僧。挂牌入室。又結夏秉拂。禪衆見其振唱。皆服之。僧海詮慧義信等推仰爲教授師。元住宇治興聖。又遷越州永平。皆從之。凡執山務自師始。故元一日謂師曰。我使汝先執寺務者。欲令法久住也。雖汝之歳長我。而能永年大弘吾宗。汝其勉之。建長癸丑秋七年十四日。元讓法席。師開堂演法。元聽其提唱。爲之解頤。未幾元以屬疾入洛陽就藥。師亦隨之。親奉湯藥。及元歿師躬負靈骨。還山如法安葬。殫師資之義。人皆歎稱之。師平日荷負宗教振起禪規。由是龍象歸仰宰官瞻禮。而道價高於海内。文永丁卯退東堂立嗣子徹通介公紹其位弘安庚辰夏四月。感微疾。大檀越波多野出雲次郎金吾自洛來候問。師念遠降慇懃垂示。檀越且感且悲。輒揮涙而返。又遺誡門人云。我滅後火浴收遺骨。即瘞於先師塔傍。勿別造焉。至八月二十四日如常沐浴。入室逮夜分謂左右曰。我先師夜半圓寂。我當效之。時至鳴鐘。集衆書偈畢。擲筆于地。顧視大衆云珍重遂溘然而寂。時弘安三年八月二十四日也。世壽八十有三。僧臘六十有三。停龕七日。顏面如生而氣尚暖。門弟子闍維收靈骨。如遺囑。師性慈祥純至。自奉甚薄。嘗在本州中濱。行頭陀行一夏。又入美味山創數椽。以自處。忘嗜欲遺形骸。栖栖風雨默坐而已。得法弟子。曰義介。曰義準。曰義演。曰佛僧。曰寂圓。曰道荐各其化旺一方。  

僧海禪師傳
師名僧海。未詳何許人。得法於道元禪師。元擧任首座。未及應世。早示滅。臨終書頌曰。二十七年古債未轉。蹈翻虚空投獄如箭。元爲師上堂。擧此頌了云。夜來僧海枯。雲水競嗚呼。徹底汝方見。還忌見刺無。欄胸一拂猶未瞥。一死而今方再蘇。又値師忌辰。上堂。擧趙州道一見僧後更不是別人。乃曰。一見老僧非舊面。生前未出一叢旋。風寒菓落換頭腦。水沫爲身雲是心。 

永興寺詮慧禪師傳
師名詮慧。江州源氏之子也。幼而剃染於横川性利鋭。而見聞甚遠。學通顯密之宗要。議論以蓋人也。一朝自念。我論議於顯密之際。未嘗見有敵當者。聞頃有道元。傳禪旨於異域而歸。未審彼明何等事來。乃出到深草。偶逢元上堂。師傍立竊聽元擧有人道得一句。法界量滅未免春夢説吉凶。更若道得一句。破塵出經也是紅粉飾佳人。直下照了非夢之眞覺。便見法界未爲大。微塵不爲小。兩既不實。一句何憑。井底蝦蟆呑卻月。天邊玉兎自眠雲。而脱然信服。便誓更衣侍巾瓶。元乃爲聽許。久受信衣。檀越創永興禪刹於洛陽。請師主之。師住未幾。都下黒白奔波仰止。遂成一叢林。  

大乘寺徹通介禪師傳
師諱義介。號徹通。越州足羽藤氏子。大將軍利仁公之後也。承久己卯二月二日生焉。年十三依本州波著寺懷鑑和尚祝髮。翌歳上叡嶽受具戒。學台教。又歸受業院。究明楞嚴。兼修習淨業。二十三改衣參道元禪師于興聖。傾心依附焉。元一日上堂曰。是法住法位。世間相常住。春色百花紅。鷓鴣柳上鳴。師聞之有省。及元遷住永平。職以典座。次以監寺。晝則營辯衆事。夜則坐禪達旦。元見其志行。毎拊髀嘆曰。眞法器也。他日必能弘通吾法矣。及元逝後孤雲奘公補其席。命師首衆。師一日趨詣丈室曰。某甲今日會得先師身心脱落話。雲云。儞作麼生會。師曰。將謂胡鬚赤。更有赤鬚胡。雲頷之曰。儞於先師所得處會其旨。諒先師太寂定中必爲儞作證。復曰。佛法中得人最難。若不得人不免斷滅佛種之非。縱使得人而非其器。亦不免斯罪。此事先聖所難。況其今也。吾今得儞已免斯罪。今日便死無復遺恨。假令尚存更接何人。言畢澘然。師受命作禮而退。終跂踰海之志。刻如意輪虚空藏二大士像誓曰。儻南遊歸來嚴飾焉。遂以正元元年己未入宋域。徧游叢席。謁諸名宿。所至蒙賞識。已而歸國。雲喜甚。即以山門屬師。宰相釋圓居士波多野出雲次郎金吾檄諸禪勸請焉。師開堂拈香爲孤雲之嗣。敬嚴臨衆。以公滅私。於是道望日遠。住持六載。退位造養母堂養母。有陳尊宿之風。郡之信士某欽慕。爲構一字敦請師。師將往。是夜夢。負包出山。葛藤繞脚。竭力截之不開。既覺而思忖。吾祖不許去歟。遂力辭不赴。棲遲二十載。波多野四郎金吾重道與之衣糧。倶不納。孤冷峭絶世味泊如也。雲將遷化。以永平所傳法衣付師。勿令斷絶。時加之大乘寺澄海阿闍梨。與其大檀藤原家尚卿師道望來詢法要。遂革教爲禪。請師爲第一世。師住持法幢高立門庭大開。諸山耆徳四表淨檀星聚川赴。後命瑩山瑾公補席。師結茅本山杜門頽然與世相忘又十年。杖笠之外包其而已。延慶己酉秋八月二十四日示疾。九月初二日喚童行爲之剃度。十二日集衆敍出世本末。至十四日辭衆。説偈曰。七顛八倒九十一年。蘆花覆雪午夜月圓。遂踟趺而逝。享壽九十有一。僧夏七十有八。其徒以法闍維。收靈骨建塔於本山西北隅。曰定光。嗣法四人。紹瑾。義尹宗圓。懷暉。各擅門風。

寶慶寺寂圓禪師傳
寂圓禪師支那人也。安貞元年隨道元和尚東渡。元住興聖。又遷永平。皆從之。元示趺後。依孤雲禪師。而咨扣心要。一日問云。如何是獅子吼一音。雲云。更不出外。師云。爲甚麼不出。雲云。百獸臘裂。師云。恁麼太似無益。雲云。無一箇不承恩。師云。某甲會得。百獸皆作獅子吼。雲云。如何恁麼會。師云。萬曲是一聲。雲印曰。汝能達觀音入理門。師作禮拂袖而嘯去。九月十三日示寂。後嗣子義雲禪師當師忌辰上堂。擧此話了頌云。師子吼時衆獸喪。死中得活卻和同。一聲奏出新豐曲。觀自在門從此通。曾野州太守藤氏捨山林田産創禪刹。請師爲第一祖。越州寶慶寺是也。義雲賛師眞曰各相之妙。通身之照。奪得洞山頂上眼睛。透徹吉祥堂奧心要。據於塵塵三昧座牀。暢於刹刹常説曲調。拈弄拂柄兮殃及兒孫。打雲打水兮好一場笑。

義準禪師傳
義準禪師。齠年與徹通介公同依波著寺懷鑑法師。落飾納法。尋上叡嶽。探賾三藏。後屬道元禪師之播揚宗猷於吉祥。更服承事。無何命掌書状。一夜雪中謂元于山巓草菴。作偈呈之。元依其韻示云。訪道登高深雪夜。可憐庭際沒腰時。試看斷臂舊公案。跳脱藤蛇幾箇知。元滅度後。咨參孤雲禪師。傳心印焉。

總持寺瑩山瑾禪師傳
師諱紹瑾。號瑩山。姓藤氏。越前州多禰郡人也。母夢呑日光有孕。自此毎日詣觀音像前。禮三百三十三拜。課普門品三十三卷。願生聖子。及誕生果丰姿秀拔。八歳投徹通和尚鏟䰂。十三依孤雲和尚。奉戒作僧。雲察其志。輒嘆曰。此子有大人之作。他日成人天師必矣。雲示寂後。又依通于大乘。精思苦研。須臾無間斷。有朝聞通上堂擧趙州平常心是道。豁然大悟。乃云我會也。通云。儞作麼生會。師云。黒漆崑崙夜裏奔。通云。未在更道。師云。逢茶喫茶。逢飯喫飯。通笑云。這漢向後大起祖風。尋以寶鏡三昧三種滲漏等一一究盡。無有餘蘊。矣。既得請住阿州城萬寺。未幾奉通之命。董大乘之席。於是升堂拈拂。機語宏放。雲衆欽服。時孤峰明公。始參法燈領旨。後聞師道音。來謁請益。師苦加磋磨。一日記云。儞縁在雲州。行矣無自滯。明去寓雲之宇賀莊。遂檀越歸依。創雲樹寺開法矣。果應師之記也。正和二年能州滋野信直室。敬重師徳。施洞谷山。藤原家方興造伽藍。經營始。弗多羅尊者現來。告師以吉祥。諸堂已成。號曰永光寺。繼而加州檀信建立淨住寺。延師莅之。又能之總持寺舊爲律院。住持定賢律師慕師風化。革而爲禪居。以師爲開山之祖。隨處盛興禮樂。丕正規矩。故諸州叢席。咸取爲矜式。元亨間。帝垂十種疑問。師奏答詳明。帝大悦。特賜總持。爲賜紫出世道場。除夜小參云。記得。永平和尚曰。百千萬境一時顯。佛現祖來教彼題。試向當門加一拶。千山萬谷幾高低。曾孫紹瑾悚息續韻。大衆要聽麼。良久云。無思無覺無生話。鼻孔眼睛自爾題。若令雙眉傳語去。空門終不分高低。上堂云。雲蓋問石霜。萬戸倶開則不問。萬戸倶閉時如何。霜云。堂中事如何。蓋無語。經半年下語云。無人接得渠。霜云。道即太殺道。只道得八成。蓋問云。堂中事如何。霜云。無人識得渠。瑾上座則不然。暫問堂中事如何。無人借他力。正中二年八月初示微疾。至十五夜半。召門人云。吾化縁已盡。泥洹時至。當鳴鐘集衆。衆集。師垂示已。復書偈坐脱。火浴得舍利無數。塔於大乘永光淨住總持四處。閲世五十八年。坐四十六夏。諡佛慈禪師。 

大慈寺寒巖尹禪師傳
師諱義尹。字寒巖。顯徳帝第三子。母贈左大臣範季之女也。建保五年誕矣。天性淳懿。不膠世故。遂辭榮。披剃于叡嶽習台教。已而捨其所業。到興聖禮謁道元禪師。元以其氣宇不凡。撫愛之。昔垂耳提。年二十七航海。入宋參見太白長翁和尚。翁一見特加器重。師未究奔馳。損友促還。厥後至文永元年。重入宋域。首謁無外於瑞巖。繼見退耕於靈隱。參虚堂於淨慈。各有機縁。咸敬異之。將且徧禮祖塔。淨遊名山。大宋咸淳三年駕商舶歸國。寓博多聖福寺三祀。又之肥之後州。居小保里。時有尼大師素玅者。營構禪刹。以其殿裏底三如來。名曰如來寺。請師爲始祖。師入院開堂。爲徹通之嗣。建治二年募諸檀造大渡長橋。甚極壯麗。人民頌徳。刺史泰明欽其道風。爲法外護。弘安六年創大慈寺於大渡。不期年而寶殿。法堂。僧堂。庫院。丈室。三門。盡金備矣。且師親刻釋迦文殊普賢之像。安之於寶殿。寺名大慈者。師南遊明州日。愛大慈山之奇絶。不忘於懷。今此地偶似之。故以名之。其山名大梁者。以有長橋故也。龜山法皇聞師徳音。下詔褒寵。特賜紫伽梨及宸翰額。又擧爲官寺。得有司監護。佛日於是流暉。法雲由斯不絶。四方尊其徳。而不敢名。止稱法皇長老。蓋以皇子也。正安二年庚子八月二十一日。淨髮澡浴。索筆書偈曰。八十四年動靜得禪。末後一句威音已前。置筆而化。門弟子奉全身。窆于本山。塔曰靈根。牧衆餘三十年。有四神足。曰斯道。曰鐵山。曰愚谷。曰仁叟。各爲一方宗主。轉化無窮。

寶慶寺義雲禪師傳
義雲禪師。大宋國人也。隨道元禪師而東渡後。依寶慶寂圓和尚而參請。遂受印記。實道元四世之孫也。正安元年圓囑紹寶慶之法席。家風嶮絶。諸方彈之。上堂。朝打三千佛祖不證。暮打八百狸奴悉知。順行也達磨西來九年面壁。逆行也庭前柏樹枝葉成堆。一念萬年如以鏡鑄像。萬年一念似以像鑄鏡。爲甚恁麼。大衆還會麼。良久云。丙丁童子來求火。天上斗星廓照空。正和三年雲州左金吾藤原通貞請董永平。臘月初二日進院。據室曰。一丈水一丈波。於中能唱巴歌。勘破毘耶小神通了。如許間座今在什麼。縱横不容擬議。亦是葛藤舊窠。住不幾。鼎新伽藍振起綱宗。故稱爲中興。上堂。鶴自長截之非鶴。鳧自短續之非鳧。須信十方佛土中。唯有一乘法。若復擬議。是法住法位。世間相常住。賛永平初祖眞曰。捷俊奇相傳大心量。吸盡曹谿淵源。而湛性海。奪取太白拄杖而返扶桑。鼻孔端有衝天氣。眼瞳重具射人光。一花五葉春日暖。嶺月洞風秋夜涼。正慶二年十月十二日示寂。遺偈曰。毀教謗禪八十一年。天崩地裂沒火裏泉。有語録。檀越野州太守藤氏知冬。發願開版。嗣子一人曰曇希。住永平及寶慶。不失家法也。

總持寺峩山碩禪師傳
師諱紹碩。號峩山。能州源氏子。母禱文殊大士。願得智慧男子。因夢呑利劔有孕。及誕風貌清奇。氣宇超邁。父母鍾愛之。自幼不喜混俗。年十六自父母求出家。父母菩隨之。遂登叡嶽。斷髮奉戒。習止觀曉大旨。尋常不妄發言。言則人重之。永仁五年聞瑩山和尚盛玄化於加之大乘。特往參請。有朝問答之間。忽有所省。自此機辯逸格。無嬰其鋒者。一夜對月趺坐。至夜半心身湛寂。物我倶忘。山於師耳畔。彈指一聲。師豁然大悟。遂蒙印可。於是徧歴諸方。勘驗知識。後歸本州。山擧任首座。元亨元年冬至令師秉拂。又命住一方。師固辭。元亨四年山謂曰。吾已老年子當代吾行化。師不得已。莅總持席。曾未幾何。諸方玄學川奔海會。鹽山拔隊。黒川月菴等。皆腰包禮謁。得人之盛。無踰師者。就中有大源。通幻。無端。大徹。實峰之五大弟子。普播宗風邪於海内。貞治四年十月初示微疾。二十日夜半索湯。浴已遺誡諸徒。臨行書頌曰。合成皮肉九十一年。夜來依舊横身黄泉。投筆而逝。停龕七日。容色不改。荼毗得五色設利羅無數。四衆悲戀如喪考妣。塔于本山西北隅焉。濃之玅應者。嗣子大徹挿艸之地。請師爲第一祖。 

大乘寺明峯哲禪師傳
師諱素哲。號明峯。能州人也。氣質穩實云爲無妄。出家於睿峰。習教乘。挂錫於建仁扣禪要。終到加之大乘。禮謁瑩山和尚。山目撃器之。命充侍者。室中常喚云。哲侍者。師應諾。山云。是什麼。師無對。如此者凡八年。山一日示云。有一人能變作萬物。且道是阿誰。師又無對。數日之後。脱然契悟。徑上方丈。將呈所悟。山纔見乃云。儞會也。師云。皮膚脱落盡唯有一眞實。山云。脱落脱落。師禮拜山後。開能之永光。招師分座説法。付衣説偈云。永光燈下列焔人。照破劫空氣象新。凸出明峯難藏匿。全功轉側露全身。師接得衣云。庾嶺誰言提不起。而今著得化門開。既而山囑云。因縁正熟。時節亦至。儞宜代我繼大乘席。師受命禮辭歸住大乘。又遷董能之永光。越之光禪。故有三坐道場之名。流播寰宇。觀應元年三月廿八日分身於大乘永光光禪。同時説法而示滅。其徒互馳价僧得知之。道俗貴卑競歎異焉。仍闍維於三處。大乘永光空盡無物。唯光禪有靈骨。收之建塔。  

佛陀寺太源眞禪師傳
師諱宗眞。號太源。參峩山和尚於能之總持。得旨會下學徒雖衆師居首焉。亦猶少林有慧可。曹谿有行之思。遂奉山之命嗣山門。尋董衆於能之洞谷。開山於加佛陀。大行道化。信靡如風。應安三年十一月廿日唱滅。遺偈云。幻而來幻。幻而去幻。幻無幻根。幻人幻幻。嗣法五人。曰梅山。曰幻翁。曰了堂。曰尼江月。曰尼滿菴。

永澤寺通幻靈禪師傳
師諱寂靈。號通幻。洛陽勇士某氏子。其母禱清水寺觀音。願得男子。限一百日。誦普門品千卷。遂有妊。欲分娩其母遽亡。父悲傷不已。瘞于古廟之側。自後行人往來。輒聞廟側有嬰兒聲。聞及其父。開壙視之。師已誕矣。其父且喜且愕。懷歸沐浴。氣體芳潔。祖母某氏撫而育之。甫二歳父喪。稍長問祖母曰。人皆有父母。我獨無何也。祖母以實告。師漣然泣下曰。我不幸早失恃怙。當與我出家。用報厥恩。祖母大喜。十一歳入台山受業。天性英敏。凡内外經史。一經其目。無不通曉。台徒交相稱譽。十四剃落納戒。或於止觀中。有所疑問。諸師輒引經論。皆不愜師意。雅慕禪門直指之説。乃往能之總持。參峩山和尚。師禮拜才起。山問。甚處來。師云。天台來。山云。欲求何事。師云。某甲於止觀之理。未決所疑。請師指示。山云莫妄想莫妄想便起去。師疑情愈熾。研究不怠。一日聞山擧心身脱落話。忽然大悟云。我會也。山云。汝作麼生會。師云。和尚莫瞞人好。山云。心身何脱落時如何。師云。倒騎佛殿出山門。山云。莫亂走。師云羅籠不住。呼喚不回。拂袖便去。出微笑。後以古人公案節角誵譌處一一詰問。師應答如流。逮山滅後。檀越細川氏欽師徳望。大興造丹之永澤。請師領之。進院上堂曰。玅靈廓通彌天句已彰。無功玅用帀地無紋彩。金鷄夜半飛玉免午日眠。且道。須彌那畔是什麼人擔荷。天水混時秋一色。衆星拱處紫微高。擧。三聖道我逢人則便出。出則不爲人。興化云。我逢人則便不出。出則爲人。山僧擧此公案來。教盡大地人借他鼻孔。出氣去。諸人作麼生。拈起拂子拂一拂云。龍吟雲起。虎嘯風生。應安年中。後圓融帝聞師化道通震。賜之以天下僧録。自是洞上之宗。盛風靡於朝市。丕波涌於湖海。永徳二年奉詔住總持。上堂云。佛佛出世轉大法輪。祖祖開堂建大法幢。諸人直下脚蹈黄金地。頭戴午夜月。拈拄杖云。看看有放有收有照有用。雖然與麼。山僧有個一條方便。倒拈須彌。捏轉衲僧鼻孔。七縱八横。横説竪説。或時臨圖添蛇足。或時坐氈牽猫兒。受笑面前。執毀背後。且置。唯如一條活路頭。作麼生蹈著。擧。僧問趙州如何是祖師西來意。州云。庭前柏樹子。僧云。和尚將境無示人。州云。我不將境示人。僧云。如何是祖師西來意。州云。庭前柏樹子。此僧恁麼問。下坡不起。趙州恁麼答。快便難逢。若有人問山僧如何是祖師西來意。對他云。鷄寒上樹。鴨寒下水。卓拄杖一下。越州刺史創龍泉。江州某居士建總寧。皆招師爲鼻祖。嘉慶二年得請再董總持。一周而歸永澤。明徳二年四月末示疾五月朔稍愈。端午日隨例上堂。午刻召大衆誡之曰。我去後汝等諸人當屏息萬縁。究明一大事使洞上玄風不墜於地。若貪著文字語言名聞利養。非吾徒也。時節已至。吾欲行矣。衆請遺偈。師書曰。閣淨來往。滿七十年。轉身端的。兩脚捎天。擲筆而逝。留龕三日。貌如生。門弟子奉龕。窆於寺之西北隅焉。有語録。門人普濟編。 

玅應寺大徹令禪師傳
師諱宗令。大徹其別稱也。未出家時。厚志此道。徧歴諸宗名衲。到能之總持。謁峩山和尚。山偶晩參。示衆云。芭蕉禪師曰。儞有拄杖子。我與儞拄杖。儞無拄杖子。我奪儞拄杖子。諸仁者作麼生會。不依口傳心授。離卻露布葛藤。直下見透可始得。師側聞無措。終夜不交睫。到天明忽然證徹。乃入室通所悟。山徹詰再三。師捷機無礙。山點首。他日師乞剃度。山爲師會諸師。祝髮授具。號大徹名宗令。師又奉承有年。飫見厭聞。自後聲價日貴。有請住總持。開堂嗣香供山。時有井益入道高峰靈玅菴主。啓玅應教寺之基趾。大搆梵宮。改爲禪林。延師尸之。師奉山爲始祖。自居世。菴主朝參暮叩。至蒙許可。征夷大將軍義滿公。聞師令徳。喜捨若干山林田園。由是道福益賑。又越之中州檀信興造大伽藍。於新川郡招師。師莅之禪規整濟。號令稹密。四衆趨化如歸。眼目山立川寺是也。師住玅應時。竺山僊公來參。師冬夜上堂。擧洞山和尚示衆曰。有一物上拄天。下拄地黒如漆。常在動用中動用中收不得。過在什麼處。問曰。如何是箇一物。僊豁然大悟禮拜。師曰。儞見什麼道理。僊曰。獨掌不浪鳴。師曰。正當恁麼時如何。僊擲下坐具。師曰。如是如是。僊巾侍六年。遂屬法眼。康暦中攝州檀越創護國寺招僊。僊乃請師爲開山之祖。應永十五年正月二十五日寂于立川。塔號獅子菴。師滅後龍神夜夜捧燈於塔下。人皆觀嘆云。壽七十有六。嗣法三十人。歸依受戒者。不可勝計。  

定光寺實峰秀禪師傳
師諱良秀。字實峰。洛陽官族也。幼齡聽習敏利。耽嗜經籍。無少懈。一日見十牛圖。忽信宗門中事。奮志出塵。剃髮受戒。徧遊諸方。求師問道。後謁峩山和尚。見道容尊儼家風高峻。乃歎伏謂。此眞吾師也。決心參請。遂了大事。山付杖拂。讓能之養壽住之。道譽遠傳聞于朝。有勅瑞世于諸岳。繼而開山于能之定光。備之永祥。到處匡衆領徒。孜孜不倦。拈推竪拂追回古人之風規。五月望上堂。萬法全體現。爲誰堪説似。薫風翻麥浪。霖南洗梅子。記得。宏智古佛云。空劫有眞宗。聲前問己躬。赤窮新活計。清白舊家風。的的三乘外。寥寥一印中。卻來行異類。萬派自朝東。今日恭次尊韻末。欲謝大衆起動。體前誰辯宗。位裏密側躬。雪月六戸曉。水天一棹風。玅應三昧底。虚廓諸塵中。禹力不到處。扶桑在海東。應永十二乙酉年六月十二日集衆囑後事了。書偈而坐化。嗣法十二人。有語録。行于叢林。  

泉谿寺玄翁玅禪師傳
師諱玄玅。號玄翁。越之後州源氏子也。母祈觀音而生。儀貌偉秀。聰慧絶倫。五歳投州之陸上寺爲童子。十六剃染受具。廣究經論。十九謁總持峩山禪師。叩別傳之旨。進修凡有幾年。而疑團頓然破。辭到伯州八橋郡。縛茅栖息。四衆歸崇。遂爲禪刹。金龍山退休寺是也。文和三年到下野州。創禪宮於五峯山號泉谿。延文庚子仲秋望日。入院開堂。瓣香酬峩山之法乳。應安四年本州結城府主新造安穩寺招師。師令嗣子齡山延公尸泉谿之席。而移法斾於安穩住四年。謝事命嗣子大仙公補其處。又經行致奧州會津。結一字艸舍。而宴坐兀然。緇素相尋而來。遂成叢席。號慶徳寺。近處有寺名慈眼。本是密宗也疊嶂列屏。清谿漱玉。實奇絶之境也。師一日徐歩遊彼。忽有神人。來而謂師曰。我是當山護法之神也。請和尚住此寺。言訖不見。神人又告住持曰。以當山早讓玄和尚。可永紹隆佛法。若不然則畢方爲祟矣。住持不敢隨之。日未幾帀地大震動。堂塔盡燒亡。人皆驚異之。俄州之刺史及遐邇貴賤捨貨財。以助再造之功。凡伽藍所宜有者。一時全備。於是住持與檀越相議請師尸之。永和元年四月十五日進院。改慈眼爲示現。於時下野州那須之曠野有石。葢馮焉。人畜禽獸觸者近者。皆無不斃。飛鳥過空及石上。則跕跕墮其毒靈。如此故時世名曰殺生石。無有過其野者。師一日攜杖行。敲石三下曰。汝元來石頭。性從何來。靈從何起。又敲三下。石流汗震動。泐然解散。忽有異人。設拜云。或是此石之靈也。蒙師開示。頓脱苦趣得生天。言訖而沒。實至徳二年八月十三日也。自此道聲雷然震于四海。征夷大將軍義滿公。重興泉谿寺。堂殿樓閣庖廩。極其完好。像設丹朢。尤劇殊麗。且施那須莊田一千餘石。以資食輪。乃請師再住之。至徳上皇勅賜大寂禪師。化風大振。學者常不減半千。既而退歸奧之示現。州太守寄附田園若干頃。爲不廢之永圖矣。應永乙亥臘月下澣示微疾。翌年正月七日臨終訓徒訖。索筆書偈曰。四大假合。七十一年。末後端的。蹈翻鐵船。擲筆而逝。門人奉全身。塔于本山東北隅。嗣法十人。齡山。大仙。前三。雪庭。大雪。劫外。大菴。雪江。壺天。天海是也。  

祇陀寺大智禪師傳
大智禪師。肥之後州人也。早年而投大慈寒巖和尚出家。巖以其有英邁之標撫愛之。尋徙大乘。參瑩山和尚。山示以百丈野狐話。日夜研究。脇不席。食不味者七年。有朝在東廊而立。見僧在西廊而過。忽然開悟。直上方丈高聲叫曰。錯錯。山一掌。師便禮拜。他日山晩參。師出禮拜。山問曰。子歸就父時如何。師曰。古鏡臺前不借燈。山曰。還有鑑照也無。師曰。鑑照即不無。不見子孫邊事。山曰。洞上之宗可倚。師呈三偈。其一曰。建化門中表嗣承。天南地北覓寃僧。誰知父子相逢處。古鏡臺前不借燈。山遂命嗣明峯首座。時元東明日和尚。東渡住圓覺。而唱新豐曲調。師謁候。日一見如舊識。道話相得甚懽。師投偈曰。洞家春色興將闌。一徑苔封到者難。只有杜鵑枝上語。夜深獨自哭空山。日撃節稱歎之。師一日有南遊之志。便跨舶入元。首謁古林茂繼。見雲外岫中峯本無見覩諸大老。各有機縁。咸以飽參稱之。既而徧禮祖塔。廣覽靈跡。數稔而歸朝。隱處加之鳳凰山誓不出山者二十年。乃有艸屋單丁二十年。未持一鉢望人煙。千林菓熟攜籃拾。食罷谿邊枕石眠之偈。其高風逸韻可想見。後有檀信。就其地興造伽藍。輪奐極世壯麗。自此道化蔚然。皂素雲馳。香華山積。晩年歸肥之後州。檀越新建廣福寺於州之石串邑。迎師領之。又肥之前州笠津水月菴。神代本覺寺。皆師之所開闢也。有偈頌集。盛行于世。嗣子一人曰禪古。奉師之命。董祇陀。廣福。水月。本覺之四處。  

弘祥寺別源旨禪師傳
師名圓旨。號別源。姓平氏。越州人也。母常禮瑠璃光佛禱得子。一夕夢呑白玉有娠。七歳隨父詣帆山寺。拜觀音像生欣仰。又見寺僧甚愛敬。歸家白父母求出家。父母以爲有夙縁。乃隨其志。遂投佛種寺竹菴圭和尚。執童子役。十六鏟䰂受具。或日圭謂師曰。觀汝根器。不當久滯村院。我聞東明日和尚來自中國。以洞上之宗。盛行于關東。亟往拜之。師受命而行。時東明主圓覺。一見許入室。遂執侍左右十二載。師資契合。元應間航海南遊。參古林茂。雲外岫。中峯本。無見覩諸大尊宿。皆稱以偉器。任以高職。鳳臺藏主寮。結夏秉拂云。一句定乾坤。千差合轍。十方倶坐斷。萬象潜形。恁麼恁麼。露柱燈籠。不恁麼不恁麼。山門佛殿。前三後三。天台南岳。長期短期。此土西天衲僧家。坐臥經行。水邊林下。觸著娘生鼻孔。發露本地風光。正恁麼時。直得。三世諸佛六代祖師天下老和尚人畜艸芥。同住圓覺伽藍。同入大光明藏。同一安居。同一取證。竪起拂子云。大衆雲門扇子。𨁝跳上三十三天。築著帝釋鼻孔。則不問且道上方拂子因甚在旨上座手裏。良久云。一字入門。九牛拽不出。及歸國寓圓覺任後版。各夜秉拂云。記得。黄龍南和尚。因僧問。滴水滴凍時。如何。龍曰。未是衲僧分上事。僧曰。如何是衲僧分上事。僧曰。如何是衲僧分上事。龍曰。滴水滴凍。堂頭和尚夜來小參。頌曰。衲僧分上滴水滴凍。拈得眼睛。失卻鼻孔。秉拂上座。未免冰稜上。走馬劔刃上。飜身云也。宗師據令意非輕。滴水滴凍話已行。百錬爐中金彈子。一鎚打碎一鎚成。一衆改觀。未幾遷建長居前版。暦應間東明和尚遷化歸越州。朝倉金吾開弘祥寺。擧師爲第一世。居無何赴鎭西壽勝寺請。明年卷席歸弘祥。又有檀信。創善應吉祥二寺。延師爲開山。文和三年東陵璵和尚。住南禪招師分座。延文二年承鈞命。主京之眞如。明年秋以疾辭。歸于越。貞治三年建仁公命至。師力辭不得免。乃扶病應之。九日上堂云。籬邊不見白衣客。爭得淵明興味間。今日黄花應咲我。白頭扶病上東山。十一日晩參罷病革。諸尊宿詣室問候。師應接如常。國醫診視謂。師不起。止在旦夕。師咲曰。吾精神未耗。尚可待三十日。時有求偈頌題賛者。皆走筆而鷹之無難色。十月朔日。征夷大將軍遣使慰問。陞弘祥寺。位列諸山。蓋重師故也。初八日諸弟子。就建仁東偏平塔基。構菴宇曰洞春。晩間舁師至塔所。師環視云。此地鄰千光入定之處。今老僧歸此。得不幸歟。至夜半更衣書頌坐化。春秋七十有一。僧臘五十又四。有語録。岫雲外。僊竺仙。日東明等諸老作題跋。 

壽勝寺月篷見禪師傳
師諱圓見。號月篷。相州藤氏子也。母平氏。嘗禱寶陀大士。感異夢而孕。既誕果奇傑超群。有善相者見之曰。是兒悲世網所羈。當爲釋門英人。七歳同郡道律師勉其出家。父母憶相者言不之禁。年十三乃從律師圓頂。習學海藏。日記數千言。同倫推重之。律師一日請曰。佛祖言教魚免筌蹄耳。須知有向上事。師聞遂往京師。依無爲禪師參究有年。未得入處。會東明日和尚住圓覺。法席方盛。師飛錫到彼便問曰。如何是佛法大意。日便喝。師云。也只尋常。日打一掴云。這掠虚漢。師于言下有省。即命居侍司。日遷領建長。師隨往。擧典藏鑰。復任首座。元弘中開法肥之壽勝。一香酬日和尚。繼董聖福。皆能振其墜緒。亞相義詮源公。招主建仁。京人聞其來。無不喜躍。學者常滿萬指。貞治三年十一月末示微疾。至臘月二日。請中岩禪師。囑以後事。咲語移時。乃沐浴書頌而化。春秋七十六。坐五十九夏。全身窆建仁雲龍菴之無雙塔下。師示疾之先一日。覩白衣大士現于香煙中。若母平氏所禱者。衆咸異其事。爭圖像以傳。師性純敏。律身澹泊。喜怒不形於色。凡四處開山。三會説法。誘導激揚。皆足以起洞上之宗乘者也。明杭州靈隱寺復見心和尚。爲師銘其塔。金陵工部杜還書焉。 

龍澤寺梅山本禪師傳
師諱聞本。號梅山。濃州人也。稚歳投州之律寺。剪落孜孜律秤。時中無虚度。律師順寂。師哀痛甚矣。誓在驛路飢往來馬者十萬。蓋善利以爲律師。資嚴覺路也。願已滿後。欲更尋師訪道。聞太源禪師爲峩山和尚之法嫡。而道化翕如。特往瞻禮。更衣隨事。源識其偉器。喜許容之。師參究之外。或二翼一盂。行頭陀行。或化米執爨供衆僧。苦節篤勵。爲人心服矣。一日遊方借宿於民家。家主他遊曁夜歸。甚醉狂兩呵其婦云。我不在汝何留彼乎。便執刀害師矣。天曉醉醒深悔之見其處。師兀坐如故。主驚異謂云。昨夜我已害公。爲甚麼如此。師無對。自思念。是平生所持之觀音力耶。開包見之。像已成兩段。主見之大感嘆敬禮。即與婦同依師落飾納法也。師有朝過曠野見髑髏在艸中。忽然疑情冰釋。急急歸來陳所悟。源擧數則因縁徴之。師應對不澁。源可之。又巾侍七載。饜餐法喜。瑞世總持。至山門云。大解脱門開。四方八面來。祥雲影漠漠瑞雪白皚皚。佛殿指佛云。唯佛自指云。與佛叉手云。賓主歴然。誰是賓。誰是主。已在目前。土地堂云。威徳乾坤大。和光日月新。有靈山記在。護法又安人。祖師堂云。少林風泠。洞水波清。祖師骨髓。衲子眼睛。禮三拜云。菊因露重傾。方丈云。彼容三萬二千座。我著尋常五尺身。今歳曾無癡愛病。一禪牀上一間人。拈衣云。不金襴與屈眴衣。麻衲傳來我老師。祖至賢兮父又利。胡爲珍御著窮兒。登座指法座云。向上直指。不跡階位。須彌燈王。在脚跟底。越之前州坂北郡簾尾有信士正壽。覩瑞興立龍澤精藍。延師爲初祖。師住未幾。四方禪侶叢萃其門。庭園院大相國公深重其名行。命本州刺史。請師赴上都。師辭不應。公堅請不已。師遁出山。於是止請。師又歸山。公遣畫工圖頂相。師不許。畫工在屏處。窺見師巡堂像之以獻公。時殿中震動。相者云。爲有大人像在也便遺使返像於山也。後征夷大將軍義政公捨莊田若干頃於本寺。以爲禳災之道場也。遠州大洞院。越後耕雲寺。皆請師爲鼻祖。共是緇衲之都會也。應永二十四年九月七日示疾。躬入浴卻坐繩牀。集衆諄諄付囑而化。道俗號慕如喪所親。嗣子六人。曰如仲。傑堂。太初。曇湖。特岳。明勇。皆時世之法燈也。  

補巖寺了堂眞禪師傳
師諱覺眞。了堂其號也。參太源和尚於加之佛陀。親受密印。出闡法於和之補巖及薩之金鐘。陶治學者。時有智嚴者。曾謁一二老宿。粗有所見。擔簦方來。師相看器之。異日徴詰其所見。嚴横機無所讓。師訶云。儞實未透徹。只認得知見解會。以爲至當。恁麼去則到處打著口鼓子。誑人即得。奈無常殺鬼何。若要生死到來得自在無礙。把儞意識裡所寶惜。一時放下。向空蕩蕩虚豁豁處。更著精彩。忽焉裂破古今。蹈翻乾坤可始得。嚴於是翻然降心。傾誠參訊。一日師陞座擧首山竹箆話云。不觸不背亦是勞生擬議。且道。如何是。嚴言下瞥爾。即出衆掀倒繩牀。師拈拄杖云。何不道取一句。嚴云。昨日道取了。師云。未暇打得儞。且去。便擲下拄杖歸方丈。嚴猶執侍前後。盤桓數歳。遂蒙囑法眼也。傳師之法者八人。曰竹窓。智嚴。奇叟。異珍。太容。梵清。方外。光超。天寧。良祐。麟岡。慧祥。了然。祖了。無學。宗全。各住持一方。激揚太源之宗脈。  

玉林寺無著融禪師傳
師諱玅融。出隅州藤氏。十九歳辭親往日之大慈。依剛中柔禪師落䰂納戒。午後不食。夜間不臥。偶閲三祖信心銘。柔見之訶曰。用葛藤作什麼。師忽發玄機。單窮明己事。尋到肥之萬壽。夏坐安居。期滿登紀之鷲蜂。謁三光國師問曰。初學如何修行。光曰。不思量。師曰恁麼如何趣向。光擒住云。是什麼。師無措。居不何又移錫於靈山興聖寺。習靜三年。一夏燒香於趺上。端坐洎及夏末。喫粥之次。見香煙印鉢裡。瞥爾發省。作偈曰。靈山付囑絶言詮。迦葉破顏傳不傳。端的全提有何物。看看心月本弧圓。延文庚子春。往薩之副田住菴。時無外和尚來寓止近里。師聞之歡喜參謁問曰。無用心處如何用心。外曰。此道無用心。師鑽仰倍請垂誨。外曰。儞今做工夫。如鑽火見煙。欲親達大道。須捨命一回始得。師聞覺如毒箭中心。其夜出到檀越家宿。打坐及深更頓然領旨。再往呈所解。外曰。未在更道。師彌加勉勵。一夜定中豁如契悟。便入室宣所悟。外首肯。後外住日之皇徳。師亦輔行。止三年。外授以衣法。命補其席。時大源嗣子了堂禪師來訪。試問曰。釋迦彌勒是他奴。他是阿誰。師曰。咦。堂曰。向上還有事也否。師曰。有。堂曰。作麼生。師曰。侍者點茶來。堂深嘆賞之。自後遷居肥之持福。信州太守季高室本了信女。大經營禪刹於肥之佐嘉。請師。師力辭。信女請不已。遂董之。法門丕啓。道聲遠震。至徳上皇勅賜玉林禪寺額。多祝國道場以旌乎厥徳。作之太平。肥之醫王。筑之大聖。豐之泉福。及永泉等。普請爲開山第一祖。所到緇侶競集。或五百衆。或及一千衆。師嘗應永年中卜居於勢州。其地鄰勢廟。祠司屡參見。問法要。受佛戒。一日謂師曰。某甲嘗夢見異人曰。儞求法志深。故來告儞。卻後十一年有眞善知識。來爲儞説法。此是太宋國芙蓉道楷禪師應化也。儞是當時楷師之檀越也。如今正當十一年。與夢中事相符。師笑曰。俗漢莫寐語矣。明徳四癸酉年初秋在泉福示病。八月十二日浴剃。著新衣坐椅。求筆書偈云。法法本來法。心心無別心。玉免常當戸。白日不移輪。擲筆從化。檀越野州刺史來拜瞻泣涙。師再開眼對談如常。怡然長往。壽六十。獵四十二。門人闍維。分骨建塔於泉福與玉林。同名曰普門。勅諡眞空禪師。得法者。明岩昭。洞巖鑑。璋山珪。龍室安。無染了。大通士。天眞適。覺海圓。南陽薫。月谷諦。無雜純。拙叟能。玉田高。大寶仙。玉翁琳。藏山澤。凡十有六人。皆盛化於方。  

最乘寺了菴明禪師傳
師諱慧明。號了菴。常州人也。薙髮於相之建長。居不幾行丹之永澤。謁通幻禪師。幻問。自何處來。師云。相州。幻云。路多少里。師云。七百里。幻云。草鞋蹈破若干雙。師云。不記數。幻打一拄杖云。老僧此間不容恁麼飯袋子。師灑然有省。便作偈呈所省。幻點首許參堂。尋登之諸嶽。參侍峩山和尚。一日聞山上堂云直下可大休大歇去忽爾徹證。不覺大笑云。諸佛之本源。即是慧明之佛性也。山喝云。儞作解心耶。師云。説似一物即不中。山便打。師禮拜。自此機辯俊快無少滯澁師以啓蒙於幻。歸省於永澤。幻喜甚。師又隨侍有年。會盡古今因縁。八面玲瓏也。幻擢居衆首。付以白拂。爲衆入室。且以自讚像與之。讚曰。孤明一色脱盡塵埃。那時風光不居靈臺。金鷄報曉天未明。玉鳳喚春銜華來。遂奉詔。應世於總持。次受幻囑。住持江之總寧。還董永澤及太平。所到法幢晃晃照映人天。又到相州謀闢一寺。擇山未決。忽有一丈夫。其形魁岸。出來引師入深。指大雄山云。此山最吉。師怪之。丈夫云。莫怪我是此州大山明王也。言訖求之無方。遂就其地。創最乘寺。遐邇貴賤皆喜。走助土木之功。大殿法堂山門凡伽藍所宜有者。盡成於指顧之間。爾來士流信歸。財施如積。師皆歸之常住。不少自焉。時有二異人。夜間入室者數回。侍僧疑之問師。師不語。侍僧竊認其蹤。則直到山下。一入飯澤廟。一入矢倉澤廟。依之識二神入室參禪。師異跡甚多。略不記。晩年構一院於寺傍。三里餘而退居矣。應永十四年三月十七日。集徒遺訓訖奄然寂。報齡七十有五。嗣法五人。曰韶陽。曰大陽。曰大綱。曰無極。曰尼慧春。 

福昌寺石屋梁禪師傳
師諱眞梁。號石屋。薩州藤氏子。島津忠久之後裔也。母阿多氏。夢白衣大士降臨有孕。生而穎異。六歳投本州廣濟寺。執童子之役。靈根自發。習學無凝滯。一日族長鑑公命師持酒器。師掉頭拒之曰。如來金口痛制。其可犯乎。鑑公喜曰。眞出家兒也。延文聞入京師。禮南禪蒙山公爲力生。十六歳落䰂進具。出謁東陵璵和尚於西雲。璵喜其風骨清奇。授以今號。嘗參玅喜月公寂室諸老。各有警發。又過泉之高瀬見雲樹嗣子古劔訥公。機語投合。尋往丹之永澤。參通幻禪師。幻門庭嶮絶而嘗不許入室。師袖香而止。幻見閉門。師退。次日又參。幻又閉門。如此者一十二次。師念。是我輕心也。今夜須捨命。晡時直立達旦。幻憫接入。師便問曰。生死到來時如何。幻曰。把將生死來。師無語。遂求挂搭。幻示以韶國師之偈。師罔措。幻有朝問曰。既是心外無法爲甚麼。卻云。滿目青山。師脱然曰。滿目聻。幻頷之。乃謂曰。汝明日鬻衣盂。設一堂粥供。自後服勤無間。造詣益深。永和間參大拙能公於東野。能相見問曰。臨濟云。赤肉團上有一無位眞人。汝作麼生會。師曰。不可喚作無位眞人。能曰。無位眞人與非無位眞人。相去多少。師曰。門前金剛擧瞋拳。能便執師手曰。須還我師資禮。師呵呵大笑而出。能顧左右曰。昔在南方。見千巖老漢於徑山。發明此事。巖大喜載我小轎巡東西。序令人瞻禮。其時悟處適來梁禪客撥轉底關根子耳。乃以獨榻待之。於是一衆指曰。逮能化住建長。師放包宇都宮閲藏教者五白。忽夢通幻禪師持袈裟見召。未幾幻應總持之請。招師輔行。果以信衣相付。永徳二年島津大道創玅圓寺。延師爲始祖。幻示寂後有僧。冒稱幻之嗣法。投刺通謁。師曰。獅子窟中無異獸。若眞證實悟底如兩鏡相照。豈瞞得山僧耶。速來一一勘過。其僧遁跡而去。應永改元。薩隅日三州太守島津元久建梵刹。起師爲開山。山名玉龍。寺號福昌。常居一千五百指。鐘鼓交鳴。規繩井井。巋然成一方望刹。於是三州道俗。靡然歸向。時有尼智泉來謁。師以瓣香與之。泉珍藏既久。化成設利羅。光彩曜目。泉駭然持以白師。師正色叱之。無令妄傳。暮年得請董總持。一周而謝事歸福昌。値幻三十三周忌日。師領衆至永澤。設萬僧供。因從容謂衆曰。我留殘喘。至今不忍遽行者。正爲先師今日事也。今能事既畢。吾當行矣。乃沐浴更衣。奄然坐脱。時癸卯五月十一日也。壽七十有九。臘六十又二。是日大風飄鼓。林木摧折。門人奉龕闍維。齒牙數珠不壞。舍利纍纍然點綴其間。分作二分。塔於永澤。拜福昌。曾自題其頂相云。六十二年何所成。進前退後大憎生。松風江月夢回去。破曉青山鳥一聲。傳法弟子六人。曰大田。竹居。智翁。定菴。鑑叟。覺隱。  

禪林寺普濟救禪師傳
師諱善救。號普濟。加州河北郡英田巨族藤氏子。年十三依本州淨住寂室禪師披剃。十五受具足戒。初遊方參天關于相之東勝。關遷壽福。師偕往。十九擧掌書記。次謁中庭于能之洞谷。庭一見器之。任以知賓。又到洛之建仁。卓錫者幾三祀。終行丹之永澤。禮通幻和尚。參叩不日命爲侍者。師一夕有奇夢。覺後發省。即入室問云。飛龍上天時如何。幻云。作麼生是飛龍。師云。龍無龍句。幻肯之。幻遷住能之總持。師從之。頻歴維那監寺知藏等職。皆執其事不怠。間益加精進。康應元年臘月初六夜。定中倐爾徹證。直詣函丈。曰和尚。和尚夜半拾金鍼。幻曰。如何拾得。師曰。通身是眼。幻曰。如何是通身眼。師曰。井見驢。幻微笑。即付拂傳衣。分座説法。且讓主賀之聖興。明徳四年奉詔住總持。元旦上堂。以拄杖劃一劃云。天得箇一清。地得箇一寧。諸佛得箇一轉法輪。諸祖得箇一立門庭。衲僧得箇一鼻孔遼天。總持得箇一己眼瓏玲。拄杖子得箇一作麼生行履去。卓一下云。早梅一朶得春馨。佛涅槃上堂。野外梅花清破玉。江邊楊柳暗垂絲。絃歌誰奏高樓月。春夜風光處處悲。應永三年還莅丹之永澤。開堂夜。野狐數百。遶寺鳴動。明夜寺僧數人同夢。稻荷明神來告云。我欲護師法幢。前夜野狐是我所爲也。衆議爲立廟住三年。重興伽藍。盛倡眞宗。繼而得請領永光及龍泉。時越州榎富上莊道俗。嚮徳音興造願勝禪刹。請尸之。又州之徳尾保大家白澤永幸居士。創建禪林精藍。延爲第一祖。殿堂門廡。鐘魚鼓板蔚而爲一方禪業也。師愛其山川幽邃。以爲終焉之處。自作十境詩并序引。有山上月明。夜夜挑定窓燭。谿邊雲暖。朝朝蒸法鉢飯之辭。應永十五年正月初示微恙。十二日寂然化滅。有語録行于世。嗣法三人。曰寶圓直傳。曰宗徳玉窓。曰金剛玉翁。共扶持家法。恰如鼎足。

日域洞上諸祖傳卷之上 終


日域洞上諸祖傳卷之下 
       
海雲住持比丘湛元 自澄撰 

興禪寺不見見禪師傳
師諱明見。字不見。雲州三澤巨族源氏子也。七歳喪母。因隨雲樹三光國師受歸戒。常語同友云。世俗昇進非是我所要。一日遇悲母之追忌。父拜請佛心國師。陞座説法。師聞始志教外旨。二十二父又喪。師便知出家時至。刀捨家眷。遁出徑行東關。投大拙能公于圓覺剃落。日夕辯道。次謁玅應大徹禪師。雖參訊勤恪。未得所見。後參永澤通幻和尚便問。末後一句始到牢關時如何。幻云。我亦不知。師曰。到末後豈有如此説話耶。幻打云。道什麼。師茫然。異日出遊門外。看二僧相對。擧則監院在法眼會裡。不嘗參請入室機縁。往復問難。豁然大悟。急歸入丈室呈見。幻點首。自後侍奉有年于此。遂得付拂。應永丙子歳。到越之前州。得山謀創精藍。掘地見珍器異寶之應。欣然經營之。殿堂已成就名興禪。初啓法席。接得四來。州之刺史傾葵爲外護。遷董莅龍泉總持永澤三刹。到處緇素萃止。無不傾首。偶遘微疾。庚寅歳六月三日。沐浴燒香跏趺唱滅。壽六十有四。臘四十有三。嗣法九人。曰了巖。中的。通谷。唄菴。愚溪。永肇。實菴。春庭。永林。 

慈眼寺天眞性禪師傳
師諱自性。字天眞。世爲奧州刺史。而師又馳智勇之名。偶逢一禪僧。問以法要。僧令其看永嘉大師云法身覺了無一物。本源自性天眞佛。師起居動靜無措。一日戰場與敵交鋒之際。忽然猛省。即抛擲弓劔。直到越之龍泉。見通幻和尚。呈所見。幻云。如汝所見。但登堂未造奧。師於是參訊益精。且請削染升壇入弟子之列。幻爲剃度。仍號天眞。諱自性。時師年四十二也。依止不幾。命掌典座。常護惜常住。不暴殄。檢束局務。無怠慢。爲衆所稱嘆。幻又示以南泉斬猫話。師工夫愈勉勵。有朝幻問曰。典座近日見處如何。師云。破鐺元舊鐵。幻云。未在。師擬進語。幻拽坐具。劈口&U+22DFE;。師當下大徹。便禮拜。幻休去。異日檀越饋一器食。幻集衆指器問云。裡許有物。白如漆。輙似鐵。喫著則百味具足。且道。是甚麼。衆下語皆不契。師出衆。去卻其蓋云。秪這是。幻曰。法喜早遭典座喫了。諸子但得其餘殘耳。於此一衆改觀。師猶溫研有年。遂辭觀方至州之宅良。買山建精藍。掘地得觀音金像之應。故山名普門。寺稱慈眼。自後升座提唱。毳衣奔走。蔚然繁盛。尋得請。莅丹之永澤。遷尸太平之席。又開山于隅之楞嚴。所在寢食不背衆。犍槌無倦。四方之綱。應永二十年正月十三日。胎囑徒衆以闡法是務。乃入寂。機堂。快翁。希明。英仲。敬堂。道一。禪一。不昧。八人出其門。宗風大扇矣。自讚云。天眞自性。不屬正偏。牛頭馬面。此土西天。 

正眼寺天鷹祐禪師傳
師諱祖祐。字天鷹。姓波多野。加州人。大織冠之後也。母阿多氏。夢日光照屋。覺即有孕。生于延元丙子年三月八日。幼而聰明。眼有重瞳。相師見稱神童。十三觀世相無常。而出家投州之律寺。圓顱方袍。戒行高密。廣探教部。遂驀有教外別傳旨。更服遊方。時通幻和尚。道風卓冠天下。師直趨謁云。生死事大。請和尚慈悲指示。幻云。語默動靜總不是。更一句道將來。師無對。自此時中無措。幻示以首山竹箆話。工夫切切。一日有所省白幻。幻益加策勵。又易示以趙州無話。師發憤力參。寢食共忘。有朝聞雷聲忽然契悟。具威儀入室。幻見師來而點頭云。子會也。師禮拜。明徳三年。征夷大將軍義滿公。集淨侶於内野。誦法華萬部。仍招師讚揚法事。由是道聲振海内。繼而尾州太守直正欽慕徳望。請申弟子之禮。受戒參禪。且需法諱道號。師書青松正眼字。以付之。應永元年太守相攸於本州下津城東傳法律寺舊跡。大建禪刹。輪焉奐焉。壯麗奪目。乃起師爲開山。師不自任。奉幻爲初祖。自居第二代。太守益重之。捨莊田若干頃。永資僧膳。師即揭太守之號名山。以諱名寺。於此衲子輻輳。掛搭者三千餘指也。己而得請董總持。次徙太平及青原。所到法雨滂然羣品均沾。又尾之興雲。丹之洞光。皆延師爲開山祖也。應永十九年十二月下旬寢少恙。明年正月二日。索紙書偈而化。世壽七十八。僧臘六十五。嗣法二人。曰天先祖命。尸正眼及雲興。曰澄照覺源。領洞光。  

大光寺天徳貞禪師傳
師諱曇貞。號天徳。姓橘氏。近州志賀郡人也。母山名氏。夢日輪入懷而有身。以正慶元年壬申生焉。八歳出家。初習台教者數歳。學業早成。既而捨去。諸方參禪。終謁通幻和尚。幻許入室。師勇猛精進。逸蹤流輩。幻一日問曰。不思善不思惡時。那箇是汝本來面目。師顧左右而卓然立。幻云。速道速道。師進一兩歩。叉手而立。幻云正當與麼時如何。師卻與一掌。幻深肯焉。時有台宗祐元法印者。住持近州益須郡醴泉寺。嚮師徳望。傾誠歸依。遂以醴泉寺爲禪居。延師主之。師開堂演法。道香普薫遐邇。一夜堂前有殊光。一道從地發。而寺内煥赫。徒衆大驚異。黎明就光處掘之。則有扁額。佛日山之三字昭然。見聞無不感歎。仍改醴泉號大光。自後法幢光燿矣。征夷大將軍源尊氏。迎請而申禮。問禪要。延元元年命有司。重興諸堂。極世精巧。幻若天宮。且寄附若干莊田。以資食輪。又贈聖徳太子親手之片岡見祖師圖像賜之。待遇之渥可以見焉。師住數稔矣。尋到周州。州之土民。喜躍恭敬如逢慈氏下生。欲立寺迎居。而覓勝地未決。忽有祥瑞。便就其地。創伽藍。延師爲第一祖。太陽寺是也。居不幾使嗣子補處。而自歸大光。明徳三年五月五日。幻和尚示滅於越之龍泉。諸兄弟請師董之。八月初一退院。九月六日遷寂于越之宗生禪寺。壽九十八。嗣法六人曰日菴。運溪。哲叟。無印。實田。朴堂。各分燈化物。  

願成寺芳菴嚴禪師傳
師諱祖嚴。字芳菴。俗姓二階堂。幼而剃染納戒。毎終日竟夜。持呪禮佛無空過。長而撥艸瞻風。徧見大方宗匠。皆稱爲精進幢。後謁通幻禪師于龍泉。幻一見遽命爲侍司。參請年久徹證大事。幻以自賛頂相與之。賛曰。驢胎馬腹如愚如拙。肥不餘肉痩不露骨。鼻氣吹横春山霞。眼角照沈秋水月。時有尼大師智本。相攸於前越丹生北郡。新營構梵宮。延師爲第一世。寶土山願成寺是也。進院開堂。爲幻公之嗣。尋領永澤。又董龍泉。所住垂化不倦。四衆忻仰翕如也。應永二十五年四月二十三日。少病集衆索筆書遺偈并年月日。墨痕未乾。曰珍重珍重。蛻然而化。嗣子十六人。各啓叢席。門葉茂隆。 

桂林寺竺山僊禪師傳
師諱得僊。字竺山。俗姓平氏。近州清瀧人也。自幼歸心佛乘。幾如宿習。九歳印施地藏菩薩像。大率以爲常。志誓出家。十五告父母出家。父母不許。動以欲境。將奪其志。十九一夕夢有牛頭馬頭二鬼。捕師而去。須臾到一城。鐵壁周匝。猛火俄然。有大釜。熱湯涌沸。四面迸流。二鬼擲師於釜中。忽通身紅爛。有地藏菩薩。手持錫杖。來現其前。師白言。我有何罪。墮此獄中耶。菩薩言。汝先誓出家。而耽著欲境。不果其志。汝若可出家。常得還人間。師言。諾不敢違。於此菩薩垂錫杖。師捉之得出。忽然夢覺。全體汗流。身心不安。自念。於戲菩薩大慈大悲。救我於獄中。出家時至。豈容思惟耶。其夜濳出。直到京城。投東山辯翁和尚薙髮。執侍左右者三年。翁常謂人曰。此子衆角一麟矣。辭遊方。初謁中峯嗣子宗日菴主。菴主一見異之。勉以實參眞究。無何菴主示寂。師七日燒臂香供養。眞前蓋報法乳之恩也。次參寂室和尚於近之山上。平心和尚於濃之水野。皆以俊穎見稱。時野之吉祥大拙禪師。道價重關東。師負笈參侍。一日禮辭。拙門送。師轉身問訊。拙遽擒住問曰。燒作一堆灰。後向什麼虞。安身立命。師於此有省。又至池寺。謁宗雲書記。到洛之眞如。參不昧和尚。辯道無怠。然己心未穩。猶如有失。適聞大徹和尚住濃之玅應。玄唱玄提迥異諸方。直行見之。徹冬夜上堂。擧洞山高祖冬夜示衆曰。有一物。上拄天下拄地。黒如漆。常在動用中。動用中收不得。過在什麼處。問曰。如何是箇一物。師豁然大悟禮拜。徹曰。儞見什麼道理禮拜。師曰。獨掌不浪鳴。徹曰。正當恁麼時如何。師擲下坐具。徹曰。如是如是。又服勤六年。遂付以法衣也。曁徹住總持。師典書記。對衆秉拂。徹聽而證明之。康暦二年攝州有應久菴主。創護國寺延師。師請徹和尚爲第一祖。自居二代。畠山金吾歸依爲檀那。雲水雜遝。終成叢席。應永初浮遊關東。少憩上州眞淨寺。時野州宇都宮諸信士。嚮師道化新創拄杖精舍。請爲開山。四年春住越中立川。尋得請董能之總持。大相國義滿公。遠聞令徳。渇仰之。特以總持爲禳災道場。六年春建近州長命寺。十五年正月二十五日。徹和尚示寂於立川師子菴。師聞訃奔喪。再住立川。大相國公。請待相看。師示以本分艸料。公機不契。已後雖有數請皆稱病不赴。赤松上總性松禪閤深抱歸崇。以播州佛果禪寺延之。使者三返。師堅辭不應。十六年冬師夢。奉徹之命遷禪刹。覺異之。未經旬日。有永光之請。衆皆嘆希有也。住三祀。移錫於玅應。又隨檀越之請到桂林。檀越饗應甚盛矣。二十年正月。庭中松樹數珠無状枯悴。一衆皆怪。師曰。如來欲般涅槃時。雙林慘然色變。今庭松枯悴。兆在微躬。果二月在微恙。三月十八日剃髮浴身顧衆曰。明朝必終焉。衆悲泣。師憐之慈誨委曲。十九日辰刻。侍者請逝偈。師索筆書曰。殺佛殺祖。寸陰不閑。及一息斷。直墮無間。過了也咦。須彌走入藕絲。擲筆而化。世壽七十。僧臘五十一。塔于本山西南隅。號祖心院。嗣法五人。曰仙龍。禪棟。善珠。如忠。守勤。各住一方。大建法幢。語録三卷。門人所録。和歌一卷。名曰埋眞集。師所自著也。

向陽寺大等祐禪師傳
師諱一祐。字大等。尾州土岐氏之子也。出家于濃州某寺。徧謁諸尊宿。後聞實峯和尚説法能之定光。肩錫參訪。依附有年。遂得法眼。瑞世總持。一日經行詣勢廟。夢大神授藤井二字。尋而詣洛陽東山清水寺。又夢大悲菩薩以藤井二字與之。師疑異之。明徳二年到若州。憩三方郡月輪教寺。時有密宗與吟法師。見師之高風。仰慕甚。師有朝指東山。問曰。何名。吟答曰。藤井山。師曰。奇哉我先夢藤井字。異之久矣。今果得逢此山也。仍隨樵路而上。見林巒幽邃。甚愜其意。乃創精舍。住者二十五年。道業純粹。遺形體均物我。故平日猛獸馴伏。聞誨如人。神人奉重。送供受戒。由是聲光遐溢。黒白競傾仰矣。應永二十二年五月二十四日寅刻無病坐化。 

泉溪寺齡山延禪師傳
齡山延禪師。不知何許人也。參謁玄翁和尚于越後州泉溪寺。翁示以靈雲見桃花話。一日忽契悟。欲呈所證。而詣方丈。翁望見即曰。作麼生。師曰。黒漆崑崙夜裏走。翁曰。更道更道。師曰田地穩密處。著衣喫飯。翁點首。付以寶鏡三昧五位顯訣等。擧爲第一座。終囑尸泉溪之席。師住持傳揚家法。重望斗山。

大洞院如仲誾禪師傳
師諱天誾。如仲其號也。參梅山和尚。頓了心機。已而往還永澤。次補巖。各爲切磋。蔚成匠手。遠州刺史。欽奉甚矣。乃築梵居。延以主之。供施豐厚異於常數。師苦於貴卑傾委。問訊繁雜。而遽然秣杖。周遊山間空澤。尋求韜晦之地。偶迷失通途。終日斷粮。忽遇老人把鋤頭種麻子。老人招師分己食倶之。引示其道徑師別去數歩回首見之。老人已隱矣。更行不幾。日已落西。寄宿於路傍茅堂。堂上安圓通像。師就祈得隱棲之地。其夜夢。大士以橘一顆。投懷中。翌日入深可一里餘。有邑名橘。有山號橘谷。閑靜無塵之境也。師自謂。昨夜所夢。是大士指示此境也。乃放嚢于此。附樹架蓬茨。僅容膝而已。浹旬山民見之群信。共剔岨蠲薉。營締巨院。稱曰大洞。時應永十八年也。大相國公遠聞徳韻高逸。奉腴沃。充堂衆齋粥之資。又徙行次近州。州之士庶生難遭想。大興洞壽禪院。請董之。永享二年遷越之龍澤。四月望進院。爲法者躡跡而往。至室盈堂塞矣。嗣後殿堂興廢。繩矩補闕。故稱爲中興。住三年歸洞壽。師曾住大洞時。一夜深更有神人。來受大戒。禮謝云。我是業龍也。今夢深恩。得脱苦輪。請施以鹹泉。永充廚下所用。言訖去。明夜俄爾山谷震動。詰且視之。果濫泉坼地而涌。其味鹹。幾許僧坊至近隣村落。皆足汲用。今猶名鹽谷。師所到處。靈跡維多。略不載。自讚曰。橘谷結艸廬。應永辛卯歳。住此中底誰。逢人無向背。主嶠對於案山。相見早晩罷。澗水潺潺乎清而涵天。松風颯颯乎鳴而隣海。於此枕漱億千萬載。咄大家一笑誾誾然。光境共忘樂愷愷。永享十二庚申年二月初五日示寂。嗣法八人。曰喜山。眞巖。不琢。石叟。物外。大輝。魁林。默堂也。喜山創備之洞松。眞巖開遠之一雲。物外建能之洞雲。各請師爲鼻祖。皆是衲子之淵藪也。

耕雲寺傑堂勝禪師傳
師諱能勝。號傑堂。河州楠正成第三子也。十七歳落飾披緇。自後尋訪教律耆徳。皆得染指。時梅山禪師。生越之龍澤。敲唱宗乘。法格峻整。師開腹包。禮謁止錫有年。晝夜苦心參究。如喪考妣。一日聞山上堂擧仰山問僧近離甚處。云廬山。山云。曾到五老峯麼有省。不自以爲至。參學愈進。後閲黄檗語。至盡十方虚空界。是我一心體。縱&U+2851D;用造作豈離虚空處倐爾大了悟。便著伽黎入寢堂。設拜述解。山印之。應永元年到越之巖船。創耕雲禪刹。請梅山和尚。爲第一祖。自居二世。問津者交集。聲望日隆。應永三十四丁未年八月七日示滅。此丘虚廓南英顯總。皆入室得悟之弟子。或繼坐道場。或分枝化導。  

佛陀寺太容清禪師傳禪
諱梵清。號太容。得法於了堂和尚。住賀之佛陀。應永壬寅冬。受請瑞世能之諸嶽。進院上堂。拈拄杖。卓一下云。平戎破虜。蓋代功勛。牽羊獻熬。明時樸懋。今日爲國開堂演法。作麼生是助蕩蕩無爲之化底一句。卓一下云。大衆樂則同歡。十二月旦上堂云。格外玄機萬靈莫測。向上宗要千眼難窺。鷲嶺拈華付囑破顏頭陀。只這玄機少林擁雪。印證斷臂師僧。只這宗要謂之佛佛要機祖祖機要。諸人還要會麼。良久云。三昧王三昧佛成道。上堂云。雪嶺雪深年又豐。太平治業是誰功。蘆芽卻長青梅子。止渇三軍奏凱風。諸方説禪總持念詩。還莫有報佛恩分麼。其如不然大衆同詣佛殿燒香禮拜。歳夜小參云。六塵不惡。還同正覺。隨例寫桃符。逐時燒竹爆。栢葉三盃既醉詩。梅花一笛村田樂。鄒律之暖漸生野溪。堯&U+26DBA;之祥已聚諸嶽。色不是色。聲不是聲。聲色叢叢。全身卓卓。正與麼時。送舊迎新底一句。作麼生。點拂云。今宵減一年。明日逢三朔。正月望。上堂云。楊柳風輕鶯燕市。芙蓉月白鳳凰臺。人人我見燈明佛。一段瑞光從本來。記得牧菴忠禪師。上堂云。今朝正月半有事爲君斷。切忌兩眼晴被他燈火換。師云。牧菴恁麼提唱。美如西施離金闕。妍似楊妃倚玉樓。總持即不然。今朝正月半有理不曲斷。可憐雙眼睛。風光日移換。下座。師平日拈杖豎拂外。勸訂正日用課誦半月布薩等儀。規諸方禪教諸院。遵行之。有語録。傳于世。嗣子窓仲。希曇。古澗。 

補陀寺無極徹禪師傳
師諱慧徹。號無極。始入天明之室。研究已事。脇不至席者八年。微有得力處。後聞最乘了菴和尚道風高峻。兼程進謁。菴相見。問曰。汝名什麼。師曰。慧徹。菴曰。未審徹什麼法。師曰。通達大智。菴曰。智不到一句又作麼生。師擬開口。菴驀胸揮兩拳。師茫然而退。自此愈加激勵。至寢食忘時。菴示以月有兩箇話。師參究年久矣。一夜深更入室。侍者點燭。師一見脱然契證。高聲曰。兩箇月現。菴曰。作麼生。師曰。不勞再擧。菴曰。近前來。師近前與一掌。菴忻然曰。今夜徹侍者徹矣。師禮拜而出。至明日菴自書此話并無極二大字。以付之。出世于能之總持。説法于相之最乘。開山于濃州補陀寺。隨處煽玄化。毳徒景從矣。  

太寧寺竹居猷禪師傳
師諱正猷。號竹居。自稱化化禪。姓長薩州人也。家有二子。師其兄。父嘗謂其弟曰。我聞一子出家九族生天。汝須出家學道。乃命師携弟。詣玅圓寺石屋和尚乞剃度。師便同弟到彼。備述旨屋欣然教僧促剃度儀。弟見叫喚而走。師乃跪而誓曰。我弟時機未熟。願我代弟出家。請師剃度。屋良久曰。爾言如此。殆宿習乎。遂賜度名正猷隨衆參究。時中純純。一日屋上堂。僧問如何是宗乘玅句。屋打曰。速道。僧茫然。師在傍徧體汗流。乃袖香入方丈呈所見。屋首肯曰。如是如是。自後洛之南禪。相之龜谷。遠之楞嚴。到處究佛祖言教差別奧義。既而歸省屋。屋喜而讓玅圓住之。又董直林福昌總持永澤龍泉五刹。大撥轉法輪。也防長豐筑四州太守大内弘忠請莅長之太寧。一住十年。衆常滿萬指。重修伽藍。再正規繩。以有成績故稱中興。也防之龍文。薩之了心。松仙。堅忠。徳住諸刹。皆師挿艸之道場也。六祖風旛話頌曰。不是風旛心是動。將軍止渇説梅林。一聲牧笛黄昏月。不解邊城兵馬侵。讚屋和尚眞曰。七十九歳五陰合成。八十年後丹青分明。那箇是那箇不是。眼裏猶聞喚叫聲。自賛曰。化化禪生住滅。劫外春火中雪。又禪餘爲後學講諸大乘經。聞者歡喜奉行。關東管領上杉法諱長棟。遠聞道風來謁。遂卓菴於太寧傍。晨夕參叩。師一日示微恙。告衆曰。卻後五日當取滅。緇素省問相繼。大内教弘相隔者兩日程。聞預告之言來拜師。師神色自若。擧茶盞曰珍重。乃書遺偈了坐化。偈曰。混沌破了八十二年。蚊子眉上好打鞦韆。實寛正二年十月二十五日也。夏六十六。壽如偈。大内亦隨僧之後津送。盈街溢陌。無不鳴咽者。先是屋和尚居肥之天艸嶋。未有一箇嗣法者。天艸某信士。或時顏色異常。正衣冠端坐曰。我是住吉明神也。石屋和尚者。古佛應化也。他日有得其法者六人。就中號竹居者。七世善知識也。其言皆識將來。聞者驚異之。其後南禪雙桂。號師爲竹居。暗合神託。可謂奇中奇也。又長州一宮者。住吉明神也。祠官廢祭禮。俄狂曰。我是社神也。自點胸曰。汝有罪當罸。然曾從七世高僧受菩薩戒。故宥其罪。言畢如夢醒。祠官舊從師受木叉也。  

泰雲寺覺隱本禪師傳
師諱永本。號覺隱。防州人也。世以賊業爲生計。一日石屋禪師。行化到家。師喜迎而宿。屋倚榻而坐。師密攜劔入室。見屋之坐未眠語曰。我家世賊也。劫奪充恒産未審有寶也。屋曰。有一寶最爲珍。其奈非汝用。師曰請出看。屋打一掴。師忽爾有省。便擲劔禮拜悔謝曰。和尚慈悲爲我賜度。屋乃剃度。隨而移薩之福昌。乞爲典座。凡執其職者一十九年。常喫殘汁&U+2972F;飯而自爲足也。人皆稱眞作道人。屋密付信衣曰。汝他時異日向弧峯頂上。發揮吾道去在。莫容易説。師又執侍左右三年。其孝順不可言。屋滅度後。一鉢孤遊。去留無拘束。防長豐筑四州太守大内嚮師眞風。請以防之闢雲禪刹。師住二十年。大興殿堂。盛播宗風。故稱爲中興。師居常法令嚴密。有纔懈參禪者。則訶責苦言。而至自溟泣。聞者無不感服。四事供養與衆齊受無少自厚。一切作務與衆同作。不少自安。由之名傳于海内。道重于叢林。師讚闢雲開基大基居士壽像曰。外現宰官相。内探教外宗。儀刑兮落落。徳宇兮雄雄。莅事於四州。則勸善懲惡。加威於九土。則易俗移風。咦。不忘昔日靈山囑。來顯法門榮衞功。竹居禪師讚師眞曰。殺無明父。破轉法輪。入火刀途饜極聖。向覺城東隱全身。興既廢梵刹於榛蕪裡。激將涸曹溪於性海濱。捏恠彼盤太子。産這舜若多神。阿呵呵在不在。前峯雲闢水中月。疎木林梢掛寸銀。享徳二年臘月十八日臥疾少時。索水漱口。顔貌怡然濳逝矣。嗣法十人。曰大功。全菴。南壽。徳林。竺心。雪心。玉崗。明室。鼎菴。牛欄。皆緇林之英傑也。闢雲後改泰雲。  

龍興寺希明良禪師傳
師諱清良。字希明。徹證於天眞和尚之室。出開闢越之龍興。盛轉法輪。征夷大將軍義政公。聞道譽崇仰之。喜捨庄田一千餘石。以裕僧供。次徙龍泉及普門。隨處四部歸誠充塞寺宇。爲眞泰副寺。下火法語云。隨處作主。立所皆眞。泰然自得。卓爾長存。及至出沒生死際。何曾動著一毫端。頭頭祖師意。處處涅槃門。且道。路頭在何處。以火把一劃云。火蛇驚起呑鼈鼻。烈焔亘天白浪飜。又題晝猿云。輕掛溪藤影更孤。巴山月白似相呼。斷腸何必三聲後。莫向愁人披此圖。文安二乙丑年九月十六日唱滅。龍文器之禪師。賛師眞云。人天師表佛祖寃讎。萬古名𦐂四海九州。  

圓通寺英仲俊禪師傳
師諱法俊。號英仲。城州人。尊氏將軍之族也。少小即有超塵之志。遂祝髮進具。稍長而遊方。徧扣洛下東關諸大老之門。終謁天眞禪師于越之慈眼。眞一日示衆。擧通玄峯頂非是人間。師聞忽爾了悟蒙印記。乃辭往丹之冰上郡。結茅於永谷山隱棲。長養聖胎者日久矣。道香漏洩黒白漸來歸。鹿園院大相國公。聞之迎待。相看甚敬重之。乃就于隱棲之地。創圓通寺。爲開山祖。喜捨庄田一千餘石。以助常住。由是犀顱常遶貌座者不減五千指。遷補席於慈眼。尋領衆於丹之永澤。處處大振綱宗。應永二十三年二月二十六日示寂。 

正眼寺天先命禪師傳
師諱祖命。字天先。加州人。菅相公之後裔也。母夢衣冠白髮人持梅花一枝來與之乃娠。生時殊香滿室。髫齔卓出凡童。常嗜詩書。良辰華景未甞懈廢。時人稱曰。菅相公再生也。年十六出俗學道。二十屬天鷹和尚之旺化于尾之正眼。往而依焉。參扣洞上宗要者十有九年。而盡得其蘊矣。應永十八年鷹命住正眼尋莅雲興。兩處大開甘露門。四遠參玄者。駢肩疊足矣。晩年雲興北數里結廬休處。多靜源寺也。長祿二年八月初四圓寂。壽八十七。尾州名古屋有菅廟。某士就祈得菅相公之眞蹟者數日。神感夢曰。汝欲得我書乎。我今現在州之雲與寺。稱天先。隨而需之矣。士夢覺異之。直往見師。未語其所爲。先出紙需字。師便染毫書天滿大自在天神七字。士於此大感嘆。而語前所爲。師呵曰。俗漢莫譫語。  

永興寺無聞音禪師傳
師諱正音。無聞其別稱也。得法於量外和尚。實通幻禪師之孫也。莅總持領永興。一雲川僧和尚賛師眞云。出于格量外。上于總持門。永興家業帶累兒孫。量外生平門庭高峻。不容易許可。唯師一人入室蒙印記。  

少林寺嫩桂榮禪師傳
師諱祐榮。字嫩桂。未詳其姓氏。近州人也。始參願成芳菴禪師而受決。後渡海入支那。徧謁有徳。多遊靈區。遂附舶歸國。到越州南中條郡卓茅菴於中津原邑隱處。徳光難掩檀信仰慕。大建精藍主之。師初南遊日。到少林熊耳禮聖跡。今此地偶似之。故山號熊耳。寺名少林。於是拈拂雕琢門侶。無輟於時。晩年遷居近州野口里海藏寺。未何俄示疾。十一月十七日寂然長往。師滅後少林遭回祿。法器什具總焚却。唯有師之自畫自賛頂相。而空紙已燒而像賛無所損。遐邇聞之。皆來觀嘆云。  

盛景寺昌菴丰禪師傳
師諱㤊丰。字昌菴。越前州朝倉氏子。廣徳帝之後也。就本州願成寺芳菴禪師。薙髮受戒。專習安禪。不務有縁。菴一日僧堂裡示衆云。天童淨老曰。參禪須身心脱落。只管打睡作什麼。方今汝等兀坐昏昏似棺木裡瞠眼相似。須急著精彩入古人脱灑之域。若是皮下有血當生慚愧矣。師聞之釋然領旨。不覺涕涙悲泣。即出衆三拜。菴問。身心脱落時如何。師曰。岸崩石裂。菴云。猶掛唇皮在。師曰。鏡分金殿燭。山答月樓鐘菴深肯之。菴又一日擧古徳飯錢話。驀拈拄杖責衆云。還我飯錢來。師出衆云。飯亦不喫。還箇什麼錢。菴微笑休去。後加州太守。盛景慕師徳音。創建梵刹於本州南條郡。寄附庄田一千石。備僧供。請師住之。師乃名寺曰盛景。進院上堂云。世尊靈山會上拈華瞬目。迦葉破顏微笑。世尊言。吾有正法眼藏涅槃玅心實相無相微玅法門。教外別傳立不文字今日親付囑摩訶大迦葉。副貳轉化勅阿難。如是嫡嫡相續。無令斷絶。後來徑山清了曰。世尊有密語古渡春殘。迦葉不覆藏落華流水。又雪竇智鑑曰。世尊有密語。迦葉不覆藏。一夜落華雨。滿城流水香。師云。山僧不然。世尊拈華。烏龜向火。迦葉破顏。碓觜生華。檢點將來。二倶有過。一箇郎當。一箇太過。雖然恁麼。諸人且道。迦葉見箇什麼道理即徴笑。試請。甄別看。豎起拂子曰。會也。擲下拂子曰。一氣不言含有象。萬靈何處謝無私。珍重下座。自後提唱不倦。緇白靡然向風。正長元年得請董龍泉。大振化權。既而歸盛景。師一日示疾。召葺菴濃公。付信衣云。此是通幻和尚平日説法之衣也。吾菴翁末後付吾。吾今傳子。子他後得人付之。濃公禮拜。師便求筆。書偈曰。平呑三世佛。卸却臭皮韈。流水浮雲歸去來。回頭碧落一輪月。嘉吉元辛酉歳八月廿三日。閣筆安恬而寂。濃公賛師之眞曰。晝者不摸。眞大丈夫。縱打筋斗。還在半途。 

種月寺南英宗禪師傳
師諱謙宗。號南英。又自稱三謙道人。薩州人也。八歳投大岳全愚公于洛之萬年。落飾進具。十九遊方。初掛錫於龜阜天龍。而習文字禪。次登台山。學智者教乘。一日自嘆曰。我聞自縁入者。不是家珍。豈空止學解分域哉。終棄去。直到前越之龍澤。參梅山和尚。又歸薩州。見石屋禪師。皆機縁不契。末後到後越之耕雲。謁傑堂師翁云。學人不遠千里而來。請和尚指示。堂云。覿面無回互。師云。如何是覿面底一句。堂便打。師禮拜。堂云。參堂去。依止十有三年。堂示以黄檗云法身即虚空。虚空不是法身。但莫作虚空解。虚空即法身。莫作法身解。法身即虚空。師極意研尋。一時茶話次。堂擧前話徴詰。師忽焉疑冰解泮。便呈偈云。法身空解畫成蛇。一拶當機更若何。昨夜春簷風雨惡。和根吹倒海棠華。堂深加稱賞辭。到備州。隱處牛頭山。扁所居曰種月。翌年堂入滅。嗣子顯總公。補耕雲之席。會有事。寺之庄田皆被居民劫奪。殿堂稍凋弊。故總引退。師不忍聞之。便來董寺務三年。田園復舊。堂宇重興。既而招總再住之。自退院事。上堂云。一片祖翁閑田地。耕雲種月已三年。功成身退是今日。擸輟犂鋤不上肩。又經行到奧州。結茅於祕澤而居。淡然閑放矣。房州太守聞其風。招以州之天寧。師臥不起。堅請不已。於是強應之。師平日勤勤。評唱五位三墮三滲漏等。刪除時世邪解。發揮曹洞正宗。可謂濁世光明幢也。其所著書若干卷。行于叢林。寛正元庚辰年五月十九日寂。法臘六十一。世壽七十四。  

雙林寺月江文禪師傳
師諱正文。號月江。城州人也。童稚聰敏。異常強識絶倫。得度之後。周歴講肆。廣閲梵篇。皆如迎亦而解。既而到處講説諸經。流辯如川。無老無幻。聞者莫不信受。行化到。相州一日講了衆退。唯有老婆一人。不退默然悲泣。師問其所以。婆曰。見師稟質。當成眞正知識。惜只止義學。師曰。近所有何宗師。婆曰。十里内有了菴和尚。以直指之道。開導學徒。請去見之。言訖乃隱。師意謂定是護法之神。便奮然棄講散衆。直謁了菴和尚。掛搭隨衆參學。菴上堂。師出衆問曰。不改舊時行履人。只改舊時行履處。如何是舊時行履人。菴曰。白雲斷處見明月。黄葉落時聞搗衣。師曰。未會請更指。菴曰。流水寒山路。漢雲古寺鐘。師不契研究愈進。朝遇海濱聞漁童歌。忽爾有所人。急歸擧似菴。菴然之。爲礙膺未破。又依侍無極禪師。極令其江月照兮松風吹。永夜清&U+2B55F;何所爲。師工夫兀兀地雖入衆作務之間。如聾如唖。一日極入雲堂。見師端坐凝然。勵聲曰。是何所爲。師豁如徹了。惟誾誾笑而已。極便歸方丈。師隨後入。通所契處。極首肯。由是爲號曰月江。遂瑞世于最乘。燒香證無極之法乳。次遷永澤。拈拂弘通幻之宗脈。又上之雙林。武之普門。尾之楞嚴。皆請爲開山始祖。隨處法道目曜。英才鱗集。寛正三壬午年正月廿三日無疾而示寂。嗣法六人。曰恭叟。華叟。一州。密山。日峯。梁翁。皆宗門之奇傑也。  

龍文寺器之璠禪師傳
師諱爲璠。號器之。生於隅州藤氏家也。幼年而薙染於里院。始投雙桂和尚于南禪習翰墨。精鋭敏達。學業日彰。桂深器之。乃以器之稱焉。一日喟然嘆曰。生死事大寧可貪古人之糟粕。而昧一生哉。遂辭謁竹居禪師於長之太寧。不憚寒暑。孜孜辯道者八歳。居室中擧高高峰頂立不露頂之話。問衆衆下語。皆不抓著癢處。師述一偈。呈所見曰。五陵公子少年客。不向春風躍馬蹄。貪見田疇麥苗秀。海棠花下放鶯啼。居莞爾許之。師愈加激勵。一朝見狗子尿霍然證入。居付拂曰。吾宗到汝大興。自能珍護矣。偶防之龍文。虚席檀越防長豐筑四州太守大内公請師者五次。堅臥不起。教居和尚加請。不得已應之。自後宰官居士。奉戒參禪。求法語偈頌者。接踵不絶。就中肥州太守天叟居士。對州刺史伊香賀氏淨久。泉州太守有馬氏忠清。崇信最厚矣。臘八上堂。午夜明星才現時。一聲㘞地立生涯。若言苦行六年力。辜負瞿曇老古錐佛涅槃。上堂。風吹日炙二千年。一箇死屍無地捐。螻蟻鳥鳶都不顧。至今紅爛百花邊。寛正四年受請住永澤。八月旦開堂。座下雲衲七千餘指。化聲大振。住一周歸龍文。應仁二年五月遘微疾。二十四日遺誡于徒衆了。泊然而逝。閲世六十五。坐夏五十四。嗣子大菴益公描師頂相請賛。師自賛曰。名字贋知識。剃頭僞沙門。面目儱侗。根性蒙昏。唖羊羣中。當于闒茸上首。闇禪場裏居于鈍牓状元。教壞二三子弟。貪煨蘿蔔於鹿阜。聒噪七百雲衲鬻梔蝋鞭於青原。這樣閑漢那裡垜跟。咦。佛祖位中無著處。生涯別立一乾坤。有語録。行于叢林。  

龍興寺大見龍禪師傳
師諱禪龍。號大見。不知何許人何氏也。明徳二辛未年生。年纔稚齒。率性軒昻。離俗進具。通明經律。迥異恒流。聞希明和尚在越之龍興。開暢禪法。乃往承事。明識其可勝任荷寄。苦加鉗鎚。一日看石頭參同契。至觸目不會道運足焉知路。豁如達不疑之地。文安二年八月初一。明付以信衣。三年春。得請莅房之天寧。四年秋。明招師來。命補龍興之席。五年冬。長尾氏。但州刺史聞其徳音。延以野之長雲。師辭不行。刺史堅請再三。師不得已應之。住六載。而再董龍興。尋領普門。明曾尸普門。日植桃樹一株云。此桃毎歳結子三度也。然向後不常實。其實必當有期矣。爾來雖枝葉蓁蓁。而不實者年久。及師住此山忽蕡蕡實焉。時方孟冬也。徒衆以爲間出之瑞。旦歎明之言不誣矣。遠近來見者如市。凡師所遷法門大啓。緇素侁侁。松本備州府主小峯。參州刺史織田。筑州太守。皆篤欽尚其道者也。康正二年十一月十一日辰刻。少病戢化。春秋六十有六。荼毘得設利。其徒收于淨圖焉。 

圓通寺牧翁欽禪師傳
師諱性欽。號牧翁。洛陽官族也。得法於丹之圓通英仲和尚。繼席唱宗旨。實天眞之孫也。法令甚嚴道價最重。莅永澤領一千衆。住普門。匡五百徒。一州伊公大菴益公等名衲。慕風參請。一日普請摘茶。時有某首座。收茶葉以洗面器。師見勵聲呵曰。凡首座職者。爲一衆標準。恁麼莽鹵者寧爲我分座得麼。遂撃鼓告衆。擯出焉云。其嚴令如此者多矣。康正元年十二月十九日恬然而示寂。

龍谿院茂林繁禪師傳
師諱芝繁。號茂林。肥之後州高瀬人也。俗姓平氏。天智天皇之後也。明徳四癸酉年生。總角慕空門。請父母出家。年十七離郷關游講肆。徧習諸經論。偶閲楞伽經。至佛語心爲宗無門爲法門處。玄機頓發。志向上一著乃到相之淨玅。卓錫辯道者三年。尋參梅山和尚于越之龍澤。平日玄學無虚畧。因山問曰。靈雲見桃花悟入。汝卻見桃花麼。師云。不見。山曰。爲什麼不見。師曰。盡大地是眼。山打一拂子。師禮拜。辭到遠之大洞謁如仲禪師。一日仲問曰。從上諸聖以何的的相承。師叉手曲躬。轉身三拜立。仲不許可。師發憤參究。廢寢忘餐者八年。造詣益邁。又見仙巖禪師。徴詰酬酢。所趣非常。巖異之。徙詣備之洞松喜山和尚。山問曰。古人得悟因縁不一。汝底作麼生。師曰。日中白漫漫。夜裏黒漫漫。山曰。非無得悟。但是行未得。若要致行解不二之地。久久修錬。如喪考妣。似養孩兒。可始得。師歎服隨侍十有三年。遂印宗要。嘉吉二年孟秋初四。山遷化。囑師領洞松之席。尋董吉祥。是又奉遺命也。遠之大洞能之總持。加之佛陀。皆師之得請所住也。到處提網宗旨。鉗鎚衲僧。道聲洋溢。晩年再歸居洞松。長享元丁未年二月八日。臨終召嗣子崇芝。囑以後事。又染毫書家訓數條了。安然坐蛻。世壽九十五。僧臘八十四。傳其法者二人。曰盧嶽。先師寂。曰崇芝奉師命尸洞松焉。川僧濟公。讚師眞曰。大智大辯如訥如愚去華。反質有古人模。針在綿裏。瞎睡於菟龍。谿老子。親捋其鬚。咦。少林枝葉年年茂。徧界聯芳徳不孤。  

乾坤院川僧濟禪師傳
師諱慧濟。號川僧。參州人也。幼而在州之華藏精舍而讀書。凡經史過目成誦。出家受具。徧見有道尊宿。咨問已躬下事。皆以穎邁見稱。後謁眞巖和尚于遠之一雲。巖識其可堪荷法。而痛箚之。師殫力參詣。遂得旨訣。巖命續其席。尋得請莅總持。到山門云。未離一雲。已登諸嶽。指云。是謂總持門。驟歩云。老鼠入牛角。自此化聲藹著遐邇。一時士流。競仰重之。濃州刺史安仲。常州刺史北條入道聖全菴主。加州太子了巖居士。三州牧刧山居士。及子通秀等。皆結師資。問禪要。觀音賛云。紅藕如船沈又浮。一波明月萬波鉤。衆生界裏半途夢。幾度補陀岩上秋渡江。達磨賛云。來處千金重。去時一葦輕。難瞞梁玉眼。風浪脚跟生。梅山如仲不琢。同幅賛云。一生二二生三。團圝同途異轍。別別別。也是證龜成鼈。眞巖和尚賛云。竹椅芒鞋。家風蕭洒。口著脚頭。眉在眼下。燈外云。一千七百老禪和奈箇證龜成鼈。何十年夜雨江湖客。透得香林室内過。一燈云。不落二三太灼然。東西諸祖各相傳。直饒分作百千。去只在渠儂室内邊。西白云。體露金風葉落時。明明皎皎更無私。達磨本不來東土。月冷梅花雪後枝。無住云。西來祖意沒蹤由。昨夜欄外失卻牛。牧童睡起開門看。谿上落紅隨水流。劔谿云。意氣無端射斗牛。穿雲透石未曾留。看看三尺龍泉勢。放出江湖萬里流。凡有請法語偈頌者。即走筆應之。不少滯澁矣。寛正元年赴前越龍澤之請。住周歳歸一雲。又尾之乾坤禪院者。嗣法逆翁挿艸之地。而請師爲第一祖。文明七年七月九日順化。有語録三卷。門人所編也。  

龍泰寺華叟蕚禪師傳
師諱正蕚。字華叟。越之後州。盤船郡人。州之太守仁木義長之子也。母某氏禱和州藏王權現願得聖子。一夕夢。權現現觀音大士身。持一枝蓮來與之。即有孕。應永十九年六月十八日誕矣。其夜異光出于屋。人奇之。幼而不飡葷膻。嬉戲常稱佛號。翫法器。父見其質非常。欲令歸釋氏修白業。甫八歳投和州常觀寺得度。稍長而博學經論。十七歳於教中所謂心身不二之文。深生疑。遂出進入台山。咨叩諸師。諸師爲之解釋。師皆不肯。時横川有淨高律師者。謂師曰。欲究明此等旨。無如禪門。我聞尾州有月江禪師。盛唱洞上之宗。儞速往可請問之。師忻然徑到尾之補陀。參月江和尚。江相見器許。師依止三祀。晝夜習靜稀展衾。有朝江上堂。師出衆問曰。如何是心身不二。江曰。山僧有眼耳。儞無有麼。師曰。某甲未穩在。江曰。可惜失卻手中珠。師於言下釋然契證。呈偈曰。二十年來尋覓他。即今放下出曰窠。心身不二是何用。用不著時吟哩囉。江點首曰。唱起新豐曲調者。除儞誰乎。乃教師入室。密印寶鏡三昧。遂辭遊歴諸方。師機語捷出透脱。到處無若之何者。後得山於濃州。經營龍泰禪刹。經兩載殿堂盡成。於是開堂説法。風聞四表。名重一時。征夷大將軍義尚公。敬重其道韻。施莊田若干頃。充僧供。文明十四年春。屬少病命嗣子絶方奝公。續其席。至六月初六日。召門人。遺誡曰。方今正法日衰。流弊月盛。儞等勉振興此道。莫令墜地。索筆書偈了坐化。荼毘得設利羅。塔于本山。世壽七十有一。僧臘六十有三。侍其法者四人。曰祖奝。玅慶。正通。清曹。各開叢席。流芳不盡。  

雙林寺一州伊禪師傳
師諱正伊。字一州。防州熊毛郡大家。稻田氏之子也。母夢白玉入懷刀孕。及生白光滿室。垂髫投州之般若寺爲童子。聰慧超群。天然會禪。有時臨鏡無影。傍人驚見以爲不祥。師笑曰。古不道乎。通身無影像。今何可怪之。遂無別事。衆僧稱譽曰。見怪不爲怪。其怪自壞實哉。出是芳名遠飛。十三祝髮進具。游方謁日峰於京師。峰試以碧巖集。僉如宿契。遂辭參牧翁於圓通。普請搬柴。次翁問。所作已辨。還得己利也否。師曰。不修萬行。不歴僧祇。翁曰。呀郎當漢恁麼去。師曰。有時乘明月。不覺過滄洲。尋參希明於慈眼。執役柴薪。終日純純。一日明過梨房。見師純朴曰。璞玉渾金堪作何用。師曰。至寶不彫琢。明斫額。師拂袖而去。徑之大用。謁月江禪師問。江月照兮松風吹。未審何所爲。江曰。暫待別時祇對。師曰。謝答詰。江微笑乃差典記室。一職一十九年而親授信衣。且補其處。居不幾國有大故。寺爲賊兵被燒。師引退。檀越太田道眞。再興伽藍請師。師固辭不應。又奉江之命。住尾之楞巖者三年。關東副元帥幕下執事。長尾左金吾俊叟居士。命嫡子景信。大創禪刹。以延師。師奉江爲始祖。自居二世。於是居士求寺號於師。師曰。居士平日操履仰慕傅大士。宜名雙林也。其山號者。在居士之意。士曰。和尚家風如同先祖了菴禪師。宜擬大雄山最乘寺號最大耶。師曰。可爾自後道化大振。毳侶駢闐隷名於籍者。曁七千餘衆。文明四年受請遷最乘。升堂展拂。叢規肅如也。座下雲衲六百餘員。延曇英應公任上首。又沼田長忠。新建玉泉寺。請師爲開山。繼而應侏田氏之招。主石井三鈷寺。既而任寺務於應公歸雙林。長享元年十一月四日戌時因疾而從化於禪室。閲世七十二。坐夏五十九。嗣法四人。曰曇英。曰天倫。曰賢室。曰益之。各足大其宗。 

眞如寺密山嚴禪師傳
師諱正嚴。號密山。平安城人也。玅年投尾之楞嚴月江和尚。下髮受戒。執侍巾瓶三十年。一日問答之際。忽有所得。自謂非究竟處。愈苦心力參者又三十年。而心地豁然。江印曰。子在吾會裡勤究者六十年。無少有間斷。遂到大徹頭處。可謂眞大丈夫也。江示寂後。到總陽開山于眞如禪寺。僧問。生死到來時如何。師云。寒岩一覺眠。忘卻百年愁。又僧問。如何是輯凡入聖之一句。師云。拶到燈籠露柱瞋。又僧問。學人如何行履。師云。歇得馳求心。其答對皆此類也。 

新豐寺天叟寅禪師傳
師諱祖寅。天叟其號也。得法於江之新豐二世雪叟和尚。實機堂禪師之孫也。奉命補新豐之席。得請莅諸岳。尋董慈眼。時曇英。應公。陳叟。遵公等名衲投錫參叩。又闢越之中州瑞泉光嚴二禪刹。大張天眞之宗風。法孫東海洋公。賛師眞曰。古佛今佛。前身後身。四處痛策龍象。五位權立君臣。把鸞膠唱新豐無生曲調。拈龜毛繼總持未了勝因。大機彰大用。惟假耶惟眞。越山兩刹高突兀。一朶曇華億萬春。嗣其法者三人。曰龍淵始祖旗雲祖旭。曰最勝始祖龜阜豐壽。曰桃源始祖興國玄晨。  

心月寺桃菴洞禪師傳
師諱禪洞。號桃菴。參大見禪師投契。見命嗣龍興山門。朝倉作州太守教景。文明年中領越之前州。欽尚其風。造立心月禪刹。延爲始祖。師説法利物。廣施饒益。遷尸太平。尋董能之諸嶽。退院偈云。北能江上漾扁舟。未値錦鱗徒勞鉤。收拾絲綸好歸去。蘆花深處一沙鴎。文明十七年季春十二日順化。  

龍谿院盧嶽都禪師傳
師諱等都。號盧嶽。野州人也。稚小而離塵徧訪禪叢。匍匐叩請。備歴艱事。後參茂林禪師。始決了疑滯。一日隨林游方。偶過參之矢矯橋。林立橋上。而顧師曰。汝禪逸格也。天下人其奈不得。我識此谿源上。必有勝地。汝今隨流而上。立儞法幢莫教我道斷絶。遂附伽黎衣而去。師拜受曰弟子生東州。而不嘗知此山路。未審向何方去。林曰。唯隨流去。師落涙而別。徑隨流而上。遂到源頭。更無路可上。時忽有白狐。來含師裾引到一山。師爲希有想。便結茅於其山而居。傍有喪處。近里毎人死。必到於此而荼毘。或三日一度或五七日一度。師見喪主歸盡。徐出而收喪食及喪菓而喫。終夜對喪火坐。如此者七年。又入深一里餘。而庵栖者四歳。山下有一民家家主常送食供之。時有異人來謂師曰。我是蛇趣也。願慈悲授歸戒。師爲授之。異人曰。寺蒙慈悲。今脱苦矣。便引師到一澤畔。又曰。請和尚就此興寺開法。言了去焉。已而見後山有大白蛇。死於幽谷中。其處今猶名白蛇谷。師方謀建造一院。遠村近里聞其事。翕然效子來之助。殿堂已成。山號大澤。院名龍谿。師乃奉林和尚。爲鼻祖。自居二世。自後毳侶四來。如蜂得王。遂成叢席尋得請領越之龍澤。住三年。又歸龍谿。文明二庚寅歳。二月初一日遇微疾。乃誡衆曰。汝輩各自勤修。莫容易。索浴説偈。神逝於函丈。嗣法二人。曰聞菴創泉龍院。曰春岡創長興寺。各請師爲第一祖。 

洞松寺崇芝岱禪師傳
師諱性岱。字崇芝。幼而慧解卓犖。儕輩推重。首投如仲和尚。披緇圓具。隨衆咨請。未有所見。次依附喜山禪師於備之洞松。屡觸鉗鎚。密契證。山一日記云。吾輪下學子不少。而堪荷負大法者惟子耳。當自愛勉。時師年二十又四也。翌年山俄爾告寂。師自是歴遊諸方。偶謁初月因公。問答往復。因見其機用出格。乃要授心印。師自謂。我久隨侍山翁。而得啓蒙。若今嗣續因公已後斷我兒孫矣。便辭去。再歸洞松。見山之補處茂林禪師。林喜迎而入室。驗過者數回。機機相契。句句相投。乃付大衣命院事。師辭不應之。命不止。強順之。文明十三年。豆州太守元資欽慕令徳。大興造伽藍。且割膏腴之地。資常住。自後道光益顯著。座下常遶龍象三千餘指。遠之石雲亦師挿艸之地也。明應五年十月二十七日安然而遷寂焉。嗣法一人曰大空玄虎。  

福嚴寺月泉印禪師傳
師諱性印。號月泉。備之中州舟木人也。幼而投喜山和尚于州之洞松寺。而出家。山入寂靈岳源禪師補席。師亦依事之。有日辭遊歴諸州。參請知識。皆無所契。歸省請益于源。源示以洞山過水之因縁。師寅夕提撕至廢寢食。文安甲子十一月一夕獨入寺後之山中。禪坐石上。少焉月上東嶺。影印寒泉。師一見頓了玄旨。即入函丈通悟由。源徴詰數回。師應對無凝滯。源證之。仍以月泉號之。源又曰。但是得易守難。自能守之久久。自然得心地平穩。師禮拜。自是志山林。無應世之念。文安二年源有遠州之行。師隨行。歸路告辭人山中。求止錫之地。至尾之野口里。相地形之勝。結茅寓止。曠然自適。時知縣西尾氏道永。偶見師安禪靜居。甚仰慕之。遂創建梵刹居之。名曰寶積禪寺。始啓叢席。供乳香於源。自是緇素崇尚。聲華燁燁。時源入滅。盛禪奭公持源之遺状至。師開封潸然。奭因依止數稔矣。師遂傳衣續席。自退庵居于山後。猶厭人縁近。復行至濃州日吉。卓菴于山中居焉。縁徳香莫掩。檀信景仰。創院莅之。號曰開元。住未幾示微恙。唱圓寂。時文明庚寅臘月二十八日也。荼毘老幼哀號。門弟子收遺骼。塔于本山。師示寂後。奭改寶積。號福嚴。 

大中寺快菴慶禪師傳
師諱玅慶。快菴其號也。未詳生縁姓氏。總角出家。早欲單求教外之旨。遊歴東西。凡謁見二十餘員之知識。已而有入處。自謂諸方無踰我所見者。偶經行過濃之祥阜。以其境之愜意。就南谷結茅。而栖息矣。時華叟禪師居龍泰。領衆説法。師嘗無心參叩。已過半年許。一日叟使僧詰之。僧到便問子。在裏許爲個什麼師云。一事亦不爲。僧云。爲甚麼。得爲個不爲麼。師惘然云上座師阿誰。僧云。華叟禪師。師云。居常教人如何修行。僧云。令人悉長連牀上伸脚而眠。師聞便高聲叫云是大善知識爲人抽釘拔楔去。遂行而親參者數載。乃承印記。開山於野之大中。廣接得雲水。  

林泉寺曇英應禪師傳
師諱慧應。號曇英。洛陽官族藤氏子也。母常拜月祈得子。一夜覺月光入喉。自此有孕。應永甲辰仲冬廿三日生。明敏拔群。六歳投相之圓覺出家。乃師事麟天瑞。一日麟戲試以聯句曰。垂露在手。師應聲對曰。清風入懷。麟愕然曰。此奇兒也。可謂濁世曇華矣。因號曇英。尋居洛之相國。學文墨者數年。遂棄行脚。始謁天叟于慈眼。叟謂曰。此事不可從他得。師於此深參密究。至飮食共忘。一夜見雪月相映。忽爾有省。便拍手叫曰。有何多事。叟聞肯之。尋參竹居于大寧。大虚于永澤。器之于龍文。莫機不契。皆稱爲英靈。末後謁月江和尚于楞嚴。江相見大喜。以師有禦侮之才。擧掌書記。由之曇英書記名。徧飛于叢林。專精辯道一十八年而始得悟。時一州和尚趣雙林之請。挽師偕往。州遷住最乘。師又隨之。雲緇六百餘員。擧師居首衆。遂奉江之命。嗣法於州。州囑董雙林之席。升堂演法破諸方邪解。死學子偸心。偶越之永平虚席。諸山和議請師。師臥不起。竪請不止。強應之。曾不幾何。重興堂宇。改正清規。上皇勅賜宗猷大光禪師。又越後林泉寺。上州長年寺。皆師之所開闢。而一方之選佛場也。永正元年十月十四日於定中入滅。平坐牀上。顏貌不異恒日。受戒弟子三千餘人。嗣法十人。師異迹頗多。長年寺北二里餘。有廟號榛名權現。一夕入室。受戒歡喜。作禮曰。我何以爲受戒之嚫。願隨師之所望。師曰。我別無望。此山水乏。神之力能致水耶。權現曰。豈是難哉去。明日方丈後。清泉忽涌出。衆驚嘆就之作池。又庭上有盤石。師時時宴坐其上。夜闇則龍神獻燈來。師一夜吹滅曰。向後莫來。然後止云。  

洞泉寺陳叟遵禪師傳
師諱明遵。號陳叟。洛陽人也。氣質穎異。不類群童。七歳出家。十九行脚。初寓于越之龍泉。次徙于慈眼。隨處單單參究己事。後謁總之眞如密山和尚。問答機鋒相契。久依座下。日益智證。山臨終顧命云。今時學者。未得謂得未證謂證者多。汝法眼圓明。辯別有分。勤莫失師法矣。且受囑尸眞如之席。繼而開山于總之洞泉。爲亡僧全鷹侍者。下炬法語曰。夢養青色鷹。覺後是胡蝶。胡蝶去翩翩。看來乾枝葉。永正四丁卯年七月四日奄然而寂。

慈眼寺大空虎禪師傳
師諱玄虎。字大空。武州人。未詳氏族。出家州之教院。學業勤勤。遂厭教相繁襍。改服入禪。到遠之石雲。參崇芝和尚。隨侍未幾。命充知藏。師屡呈見解。芝呵不許。師愈勉勵。不交睫者日久。有朝芝問曰。世界壞時此性作麼生。師曰。此性倶壞。芝曰。畢竟如何。師擬進語。芝驀面一掌。師當下脱然乃禮拜。芝曰。見甚麼道理。師起來掀倒禪牀而去。芝深肯之。後讓石雲之席主之。於是開堂演法。振興宗猷。長享二年得請。董越之龍澤。居三祀。歸石雲。師平昔神異惟多。人莫能測。一日就檀家。求生魚膾。檀越爲辨成。師致飽乃去。檀越訝之白芝。芝喚師來問之。師即設盆水。向中吐之。則魚游活如故。芝微笑。檀越甚敬異矣。又勢州淺香有一窮谷。或火焔熾然。熱砂火星迸散四邊。或熱湯涌出飜空數丈。或聞罪人逼苦叫喚。可甚怖畏。人不得近其畔。唯遠見遠聞而已。州民名曰地獄谷。經中所謂閻淨處處有孤獨地獄。或在山林曠野中。或在大海江河畔者乎。師聞之。杖錫獨往到其畔。禪坐數日。火湯竭滅不重起。擧州大感歎。太守敬心油然。俄創淨眼禪寺於淺香。大殿門廡齋寢悉具。乃請師住之。於腴田若干頃。以助衆食裕如也。一夜有神人來入室。峩冠偉服手執圭。謂師曰。我是皇太神宮也。久思受大戒詢宗教。今師住。此州我之幸也。請滿我所願矣。師爲授金剛寶戒。敷宣法要。神人歡喜。嚫以藕絲伽黎衣白石念珠等。作禮而去。師領衆有年。引退處本州田丸廣臺精舍。居不何毳客追慕。士流敬事。遂成巨叢。上皇聞其徳音。詔赴闕。親問宗旨。乃賜紫直裰。號佛性禪師。永正二乙丑年七月廿三日唱滅。  

福嚴寺盛禪奭禪師傳
師諱洞奭。號盛禪。遠州周智郡人。父母常詣佛祠禱子。永享年中。母氏感異夢乃娠焉。甲寅仲春安詳而産。七日後有僧。儀貌端嚴。以梅華一朶與師。師含笑而採之。其僧忽去無方。華亦化烏有。而一室猶芳菲。父母奇之。二歳春就父求其華。父驚異曰。是何華乎。師曰。祖師所賜之一枝也。是言之初。自是言語通利也。常不與群兒遊戲。見僧侶則敬之。見法器必翫之。文安二年洞松靈岳和尚。有遠州之行。歸路偶憩師之家。見師骨相奇秀。親父母乞之。父母喜曰。我等常憶此兒。非塵中物。今師乞之。實惟幸也。岳攜之歸寺。爲剃度。師性最敏穎。習學日新。稍長志遊歴。始入洛寓止建仁。往來瑞龍慧日之間。究臨濟宗旨。一夜禪定中見神人。青衣峩冠。儀容挺特。告曰。我奉大洞祖師之遺命。護公日夜不怠。公今棄洞宗入他門。故我欲去。然無上法器。惜別來見。師問。卿何人耶。神人曰。我是遠州秋葉之神也。言訖而隱。師驚悟。明旦徑趨遠州。先上秋葉山。謝加護之恩。山有大悲堂。七日煉頂祈願。進道無障。次登大洞禮祖塔。時如仲嗣子。默堂智公。董大洞。師附而決擇五位旨訣。得其大要。歸來侍事岳。岳病革。師啓曰。師若不起。教我依誰。岳曰。吾有附法弟子性印。在尾州。是則汝師也。遂託書及遺物。師持而如寶積。通心緒。印聽計潸然。亦驩師之來。師晨夕參請。研究大事。文正元年二月二十日入室。問答之間瞥然契證。印爲許可。遂付衣法。續其席。三月旦。進院開法。知縣道永。信饗道望。公務之暇。入室問法。得入處。道永患其地湫隘不足容衆。相攸於大艸山之西北。大營造禪刹。經三祀落成。大殿雲堂山門庫院。凡伽藍所宜有者。輪奐全備。見者拭目。已而迎寶積佛祖之像。移此山。師領衆入寺。上堂。規則嚴如。四衆歡呼。於是寺改福嚴。山名大叢。稱印爲開山第一祖。道永割大艸下原之二村。以永充衆供。此山乏水。師一夕上翠微。禪坐樹下。黎明水出膝下。自甃石貯漪。旱年不竭。名曰金剛井。明應七年得請。莅越之龍澤。大振宗猷。一周歸福嚴。永正丙寅有大洞之請。師以老不行。差祖菴彰公充其任。道永圖師之像需賛。師便書曰。斫開福地。坐斷乾坤。西天東土。盡是兒孫。本州關田邑有強壯勇悍而以盜爲業者。常率其黨。處處劫奪。殺人放火。不可勝計。延徳年中疫死。黨屬就師。請秉炬佛事。時正青天。當纔擧棺。黒雲俄來。驟雨迅雷不可言。衆人驚怖。師秉炬。打圓相曰。三世諸佛亦如是。歴代祖師亦如是。天下老和尚亦如是。汝亦如是。我亦如是。如是如是。以炬扣棺三下云。翡翠蹈飜荷葉雨。鷺鶿衝破竹林煙。乃坐棺上不動。時空中有聲曰。極重惡人天將罸。禪師不許。我等空去。大笑一聲。而天如故。見聞無不嘆異。丁丑冬十月示微恙。至春倍篤。其徒住院者來集。師云。吾生日甲寅春時正也。入室傳法之日亦時正也。今當取滅於時正之日。二月八日集衆苦口遺囑。奄然而化。壽八十五。臘六十八。徒衆奉遺命。塔全身於山阿。受戒者不知其數。得法者五人。曰龍拈祖菴。洞禪養拙。玅仙來鳳。太平卍室。大泉偃龍。各各弘通宗派。支派曼衍。  

大中寺培芝悦禪師傳
師諱正悦。培芝其號也。投雙林一州和尚。薙染稟戒。遊方謁快菴禪師于大中。菴問云。何處來。師云。來無來處。去無去處。菴云。何不離去來。師云。清風過廬山。菴云。忽把住清風。又作麼生。師云。滿手裡。菴云。儞住何人會下。師云。住無住處。菴便打追出。師却回云。直下兩頭倶透脱。出林猛虎鼓脣牙。菴微笑云。且坐喫茶。因巾侍有年。遂紹迹山門。化風隆盛。  

光嚴寺東海洋禪師傳
師諱周洋。號東海。越之中州。神保氏之一子也。其父事府君有忠。又深歸佛乘。一日謂師曰。生涯如夢。富貴不可樂。願汝出家。早成無上道。度我等及一切。師喜而唯。乃攜謁旗雲和尚于州之光嚴。而伸所懷。雲嘉其志。許爲弟子。師幼而能詩。人器之。雲俄赴武州龍淵之請。師隨往。父惜別甚矣。作詩曰。老少別離情是同。柳枝欲折涙先紅。暮齡難待重來日。只乞勤能繼祖風。師便賡韻曰。生死無常老少同。袈裟惜別涙痕紅。請修淨業期蓮國。吾亦了心繼祖風。及長周遊大方。歴參碩徳。已而歸省雲。又親炙有年。雲一日室中擧香嚴撃竹話。師聞忽領悟。禮拜已退。徐通所悟。雲許可證明。遂命董光嚴之席。尋莅總持。進院日俄頃雪下。師指山門云。天開普賢門。容金輪統御。看好雪。片片不落別處。一衆愕然稱嘆。佛殿云。爛嚼眞彌勒。横呑老釋迦。盡大地黄金殿。向仆麼處屙。土地堂云。把汝智慧檝。行我般若船。佛勅神力。覺海湛然。祖師堂云。第一西乾。第二東土。花名牡丹芍藥。凡艸木不足數。據室拈竹箆云。開甘露室。飮甘露漿。打卓一下云。撃動甘露鼓。出現甘露王。拈衣云。這箇是三百片鐵枷。因甚麼今日挂在野僧肩。噫罪過彌天。登座云。須彌峯不高。世界海不闊。今朝倒騎牛。上三十三天。凡法旆所遷檀信歸之。如星拱北。石州太守景周。總州刺史清岳居士。越州府主機先居士。三州刺史金峯居士等。皆申弟子之禮。受戒問法。明應五年左金吾平氏朝政。爲先考若州牧泊要居士設忌請普説。八年尾州太守中原勝章。爲父一華居士請上堂説法。以至求法語偈頌者。不可枚擧也。佛成道云。看來大地無衆生。誰使瞿曇遮眼睛認我三千丈愁鬢。誤成一夜滿天星。六祖賛云。祖室剛言投密機。老樵日暮下巖扉。嶺南柴子價多少。束換黄梅金縷衣。自賛云。推須彌枕。倒臥虚空。大夢破後。江月松風。永正乙亥年四月二十四日。師示疾。臨終左右請遺偈。師書云。夢幻空華。五十有八。末後一句。問不容髮。擲筆而化。嗣子三人。曰竹遊。曰始春。曰竹菴。有語録傳于叢林。 

泉龍院克補嶷禪師傳
師諱契嶷。克補其號也。謁參州泉龍禪院字崗和尚。得旨服勤已久之。遂續席行道。一日集衆謂之曰。穢惡國土不喜久居。吾且歸矣。衆驚訝之。詰旦著衣。徧巡諸堂了便形隱。衆尋之無方。維大永三癸未年五月二十八日也。自後以此日爲追忌。嗣子三人。曰光國開全久。曰希聲創靈岩。曰琴室建醫王。皆稱師爲鼻祖。自居二世。

全久院光國玉禪師傳
師諱舜玉。光國其別稱也。參克補和尚於參之泉龍。補教其看倶胝竪指話。師工夫純至。一日茶話次。補問曰。近日見處如何。師竪起一指。補曰。不是不是。師自是參究愈進。他時入室。更咨叩數則因縁。補不對。良久曰。倶胝竪指意作麼生。師曰。不會。補便喝。師脱然曰。蒼天蒼天。補曰。更請道一句。師又竪起一指曰。蒼天蒼天。補印之。遂付永平傳來芙蓉楷祖法衣。丹州牧戸田氏入道全香。敬嚮其徳業。經營禪宮於參州渥美郡延師。師乃奉補和尚。爲鼻祖。自居二世。且揭全香曩祖之法號。名曰全久院。尋得請董參之龍谿及泉龍。到處垂慈接物。時奧州某信士。欲歴詣西海路大悲之靈場。而路經豆州山中。會日已暮。忽有二鬼來。奇形異類甚可怖。信士屏巖石間而偸眼之。又有一女。過其處去。一鬼追將執之。而不得執反來。一鬼曰。盍執來乎。曰。此女不可得也。曾從光國和尚受佛戒。今尚帶其血脈。故難若之何。言已一女二鬼各散去無方。信士大驚嘆。便就路人。問師之所住。遂造參之全久。謁師詳説向之事。且傾誠乞戒。師爲授之。自後歸依受戒者。川鶩蟻屯。又參州新城東北數里有古戰場。天陰月昏。則鬼神聚叫。山川震眩。恰如萬卒相翦屠。其聲甚可怖畏矣。征夷大將軍聞其事。徧命諸宗名徳救濟之。名徳各率若干緇侶。累日持念。而鬼叫不止。將軍又請師。師挈衲子數輩。而禪定諷誦者一夜。鬼叫即止矣。擧州大感異之。將軍命有司加優賞。由此道聲籍甚。叢林傾挹。師曾詣勢廟。抒水漱口盥手。時杓中有物。見之則金錢也。師念。是神之所賜也。乃曰。世財非是吾所願。賜法財則甚可喜。抛之水中而再抒水。則得二寸餘觀音金像。便頂戴包衲。終身不離之。師題補翁頂相曰。玅容不動威音外。大用現前興化門。道種猶餘玉田裏。異苗繁茂秀乾坤。永祿四年八月十一日示滅。嗣子巧安續山門。又開闢參之蓮華禪寺。流香馥郁。

日域洞上諸祖傳卷下 終

雒陽銅駝防 
元祿七甲戌暦孟夏吉日             
書林秋田屋清兵衞壽梓

予既撰日域洞上諸祖傳而成焉。有客謂曰。偉哉是擧也。夫撰史之難。自古所難。而僧史爲尤難也。本朝洞上諸師。有傳上僧史者。纔不過數員。志士常爲之大息。今此書初出。可謂出遺珠於滄海。起往哲於九原者也。然而間令彼殷殷盈耳之異跡。於此書則勿聞。昭昭在文之奇行。於此傳則無覩者。是旁探之未盡。撰述之未備乎。爲師疑焉。曰。予素寡聞淺識。安敢求稱僧之董狐乎。惟自慨先徳之實踐。隱沒於歳月。而遂失其傳。故不思謭陋。探遠覓近。而幾乎泛觀諸師之行蹤。其間一人之傳而有數本之不同。有多人之異聞。各順所習以爲眞。而不能辨金鍮。豈得分珉玒。故予今總會之。校讎之。以擧明明之實状。而措區區之淨言。是憎紫之亂朱。恐莠之害苗也。如玄翁禪師度脱殺生石。且遭擯黜之事。世説甚多。舊記紛亂。其不可解者非一。或曰。至徳帝詔峩山禪師。度脱石靈。於是山乃命大徹師而代行。時玄翁在山會裏。竊自謂。我之機用特可度石靈。而不意令徹公爲之。憤悱不能持。夜潜出而先徹往那須而度之。諸兄弟相議曰。翁不受師命。而先徹公而行。太爲非禮之過也。於是擯罰其門徒者三百年。夫翁之度石靈者。實在于至徳二年。而峩山已寂于翁治四年矣。自貞治四年下迄至徳二年。其年之相後二十年。非降度石之詔于山公也明白。而不擯翁以非禮之咎也亦無可疑焉。而今謂降詔于峩山。而翁以非禮被擯。是予之所不解也。或曰。至徳帝詔大徹。度脱石靈。徹之那須。撫石一喝。石忽震動流汗。徹以爲已度了歸洛。而石之毒靈。依然不滅時。翁在泉谿寺。聞之往彼。授戒説偈以拄杖敲三下。石忽然崩裂。毒靈始銷。自茲翁之聲譽播於天下。大徹妒之。上奏是邪法也。因擯之。夫大徹者峩山之嗣。而徳行尤卓犖者也。既入毒害之地直施手段如此。則其毒靈。豈不滅乎。而今謂毒靈依舊。是予之所不解也。縱使雖徹公不能度。而至翁能度。徹公宜避席謝之。何我慢嫉妬讒翁以邪法乎。而今謂妒而擯之。是予之所不解也。或曰。諸兄弟相議曰。打破靈石。是同犯殺生戒。因擯之。夫宗師玄機。超生超死。超性超相。超罪福超因果。豈持戒破戒之所能攝乎。破竈墮啓行於前。玄翁接踵於後也。若以翁爲殺生。而擯之。則如破竈墮因縁。以爲如何乎。且以戒律論之。乎。爲萬而殺一者。菩薩之戒也。而今謂以犯戒擯之。是予之所不解也。或有議翁之擯而理屈言窮者。乃云。翁之被擯。以其盜寫峩山室中祕密之書也。非依度石之事。是亦不可信。夫禪門之傳授者。傳無所傳。授無所授。其所謂祕密者。亦元無可祕密之法。但未悟之人而得其訣。則必至自害害他。故爲彼祕之也。譬猶未能操劔者。得其鋭器。則至㤮自傷傷他故。爲彼祕之耳。非如世俗衒術之人。鬻師資賣祕密也。翁之於山公。已入室窮奧。稱其嗣子。則山公之於翁。何祕藏不悉付乎。而今謂爲盜寫祕書擯之。是予之所不解也。凡如上諸説者。盡是未窺大方之域。未泯人我之執者之所弄。而非宗眼圓明之人之所談也。故今之傳槩記度石之事。而略擯罰之説。又頃觀鎌倉志所載之源翁傳。云始謁峩山於諸嶽。究洞上旨。晩掛錫於建長。入大覺室。予以爲其謬甚大也。夫大覺寂于弘安元年。玄翁生于嘉暦元年。是覺之寂。先翁之生者。四十八年也。翁豈有入覺之室乎。因按之。濟宗自有源翁。是規菴之嗣也。非洞宗度殺生石之玄翁。玄與源歴歴兩翁。而年代亦不同。作彼傳者不詳之。漫以此玄翁之行實。混爲彼源爲之事蹟。而終欲令此玄翁改宗爲彼源翁。豈不難乎。若就彼傳中。一一點破其舛差。則彼源翁非啻不能打破靈石。卻見自七花八裂化烏有去。阿呵呵。堪絶倒矣。顛倒錯亂。何如此之劇乎。客曰。然則玄翁擯黜之事。一向將以爲妄乎。而奈有官存其事。而頃年解其擯何。曰然也。予非以擯之事爲妄也。如前所説擯之所由。悉是予之所不解也。想別有所由。吾未知之。故略焉耳。非惟玄翁之一傳。展轉不可解者如斯之多。其餘之諸傳。亦難信之説不少。或以他茂行。移植爲我門之榮。而此亦龍燈。彼亦龍燈。彼度蛇趣。此嚫蛇鱗。及乾壞迸涌泉。鹽水滅遠火之類。不知幾何。是皆此傳所不記也。誠是闕疑之道也。大凡撰史之任。在取大略小。擧要措泛者。攬之歴代之史。而可考焉。若聞而記之。見而書之。則豈徒丘山之多而已哉。人將不堪其煩也。其悉筆審擧。而不失折衷。則推之後作者云。元祿甲戌仲秋日雲山湛元跋