mardi 8 octobre 2013

Asaji ga yado 「淺茅が宿」Ugetsu Monogatari 雨月物語

Asaji ga yado「淺茅が宿」Ugetsu Monogatari 雨月物語. Auteur : Ueda Akinari 上田秋成 (1734-1809). Date de publication : 1776.
Source : Ueda Akinari shū 上田秋成集, Yūhōdō bunko 有朋堂書店, réed. 1931, p. 239-251. Édition électronique du 8 octobre 2013, une relecture.


雨月物語卷之二

淺茅が宿

下總の國葛飾郡眞間の郷に、勝四郎といふ男ありけり。祖父より舊しくここに住、田畠あまた主つきて、家豐に暮しけるが、生長りて物にかかはらぬ性より、農作をうたてき物に厭ひけるままに、はた家貧しくなりにけり。さるほどに親族おほくにも疎んじられけるを、口をしきことに思ひしみて、いかにもして家を興しなんものをと、左右にはかりける。其此雀部の曾次といふ人、足利染の絹を交易するために、年年京よりくだりけるが、此郷に氏族のありけるを屢屢來訪ひしかば、かねてより親かりけるままに、商人となりて京にまうのぼらんことを頼みしに、雀部いとやすく肯がひて、いつの此はまかるべしとこえける。他が頼しきをよろこびて、殘る田をも販りつくして金に代へ、絹素あまた買積みて、京にゆく日をもよほしける。勝四郎が妻宮木なるものは、人の目とむるばかりの容に、心ばへも愚ならずありけり。此度勝四郎が商物買ひて京にゆくといふを、うたてきことに思ひ、言をつくして諫むれども、常の心のはやりたるにせんかたなく、梓弓末のたづきの心ぼそきにも、かひがひしく調へて、其夜はさりがたき別れをかたり、かくてはたのみなき女心の、野にも山にも惑ふばかり、物うきかぎりに侍り。朝に夕にわすれたまはで、速く歸りたまへ。命だにとは思ふものの、明をたのまれぬ世のことわりは、武き御心にもあはれみたまへといふに、いかで浮木の乘りつ、もしらぬ國に長居せん。葛のうら葉のかへるは此秋なるべし。心づよく待ちたまへと言ひなぐさめて、夜も明けぬるに、鳥が啼く東を立出でて京の方へ急ぎけり。此年享徳の夏、鎌倉の御所成氏朝臣、管領の上杉と御中放けて、館兵火に跡なく滅びければ、御所は總州の御味方ちへ落させたまふより、關の東忽に亂れて、心心の世の中となりしほどに、老たるは山に逃竄くれ、弱きは軍民にもよほされ、けふは此所を燒きはらふ、明は敵のよせ來るぞと、女わらべ等は東西に迯げまどひて泣きかなしむ。勝四郎が妻なるものも、いづちへも遁れんものをと思ひしかど、此秋を待てときこえし夫の言を頼みつつも、安からぬ心に日をかぞへて暮しける。秋にもなりしかど、風の便もあらねば、世とともに憑みなき人心かなと、恨みかなしみ思ひくづをれて、

    身のうさは人しも告じあふ坂の夕づけ鳥よ秋も暮れぬと

かくよめれども、國あまた隔ぬれば、いひおくるべき傳もなし。世の中騷がしきにつれて、人の心も恐しくなりにたり。適間とぶらふ人も、宮木がかたちの愛きを見ては、さまざまにすかしいざなへども、三貞の賢き操を守りてつらくもてなし。後は戸を閉てて見えざりけり。一人の婢女も去りて、すこしの貯もむなしく、其年も暮れぬ。年あらたまりぬれども猶をさまらす。あまさへ去年の秋、京家の下知として、美濃の國郡上の主、東の下野守常縁に御旗を給びて、下野の領所にくだり、氏族千葉の實胤とはかりて攻むるにより、御所方も固く守りて拒戰ひけるほどに、いつ果べきとも見えず。野伏等はここかしこに寨をかまへ、火を放ちて財を奪ふ。八州すべて安き所もなく、淺ましき世の費なりけり。勝四郎は雀部に從ひて京にゆき、絹ども殘なく交易せしほどに、當時都は花美を好む節なれば、よき徳とりて東に歸る用意をなすに、今度上杉の兵鎌倉の御所を陷し、なほ御跡をしたうて攻討ば、古郷の邊は干戈みちみちて、涿鹿の岐となりし由をいひはやす。まのあたりなるさへ僞おほき世説なるを。ましてしら雲の八重に隔たりし國なれば、心も心ならず、八月のはじめ京をたち出でて岐曾の眞坂を日ぐらしに踰けるに、落草ども道を塞へて、行李も殘なく奪はれしが上に、人のかたるをきけば、是より東の方は所所に新關を居ゑて、旅客の往來をだに宥さざるよし。さては消息をすべきたつきもなし。家も兵火にや亡びなん。妻も世に生きてあらじ。しからば古郷とても鬼のすむ所なり、とてここより又京に引きかへすに、近江の國に入りて、にはかに心地あしく、熱き病を憂ふ。武佐といふ所に、兒玉嘉兵衛とて富貴の人あり。これは雀部が妻の産所なりければ苦にたのみけるに、此人見捨てずしていたはりつも、醫をむかへて藥の事専なりし。ややここち清しくなりぬれば、篤き恩をかたじけなうす。されど歩む事はまだはかばかしからねば、今年は思ひがけずも此所に春を迎ふるに、いつのほどか此里にも友をもとめて、揉ざるに直き志を賞ぜられて、兒玉をはじめ誰誰も頼もしく交りけり。此後は京に出でて雀部をとぶらひ、又は近江に歸りて兒玉に身を托せ、七年がほどは夢のごとくに過ごしぬ。寛正二年、畿内河内の國に、畠山が同根の爭果さざれば、京ぢかくも騷しきに、春の頃より瘟疫さかんに行はれて、屍は衢に疊み、人の心も今や一劫の盡くるならんと、果敢なきかぎりを悲しみける。勝四郎熟思ふに、かく落魄れてなす事もなき身の、何をたのみとて遠き國に逗まり、由縁なき人の惠みをうけて、いつまで生くべき命なるぞ。古郷に捨てし人の消息をだにしらで、萱草おひぬる野方に、長長しき年月をすごしけるは、信なき己が心なりける物を、たとへ泉下の人となりて、ありつる世にはあらずとも、其あとをももとめて、壟をも築くべけれと、人人に志を告げて、五月雨のはれ間に手をわかちて、十日あまりを經て、古郷にかへりつきぬ。此時日ははや西に沈みて、雨雲は落ちかかるばかりに闇けれど、舊しく住なれし里なれば、迷ふべうもあらじと、夏野わけ行くに、いにしへの継橋も川瀬におちたれば、げに駒の足音もせぬに、田畑は荒れたき儘にすさみて、舊の道もわからず、ありつる人居もなし。たまたま此處彼處にのこる家に、人の住むとは見ゆるもあれど、昔には似つつもあらね、いづれか我住みし家ぞと立惑ふに、ここ二十歩ばかりを去りて、雷に摧れし松の聳えて立るが、雲間の星の光に見えたるを、げに我軒の標こそ見えつると、先喜しきここちして歩行むに、家は故にかはらであり。人も住むと見えて、古戸の間より燈火の影もれて輝輝とするに、他人や住む、もし其人や在すかと心躁しく、門に立ちよりて咳すれば、内にも速く聞きとりて、誰そと咎む。いたうねびたれど正しく妻の聲なるを聞きて、夢かと胸のみさわがれて、我こそ歸りまゐりたり。かはらで獨自淺茅が原に住みつることの不思議さよ、といふを、聞知りたれば、やがて戸を明るに、いといたう黒く垢づきて、眼はおち入たるやうに、結げたる髮も脊にかかりて、故の人とも思はれず。夫を見て物をもいはで潜然と泣く。勝四郎も心くらみて、しばし物をもきこえざりしが、ややしていふは、今までかくおはすと思ひなば、など年月を過すべき。去ぬる年、京にありつる日、鎌倉の兵亂を聞き、御所の師潰えしかば、總州に避けて禦ぎたまふ。管領これを攻る事急なりといふ。其明雀部にわかれて、八月のはじめ京を立ちて、木曾路を來るに、山賊あまたに取こめられ、衣服金銀殘なく掠められ、命ばかりを辛勞じて助かりぬ。且里人のかたるを聞きば、東海東山の道はすべて新關を居ゑて人を駐むるよし、又きのふ京より節刀使もくだり給ひて、上杉に與し、總州の陣に向はせたまふ。本國の邊りは疾に燒はらはれ、馬の蹄尺地も間なしとかたるによりて、今は灰塵とやなり給ひけん。海にや沈みたまひけんと、ひたすらに思ひとどめて、又京にのぼりぬるより、人に餬口ひて七年は過ごしけり。近曾すずろに物のなつかしく有りしかば、せめて其跡をも見たきままに歸りぬれど、かくて世におはせんとは努努思はざりしなり。巫山の雲、漢宮の幻にもあらざるやと、くりごとはてしぞなき。妻涙をとどめて、一たび離參せて後、たのむの秋より前に、恐しき世の中となりて、里人は皆家を捨てて、海に漂ひ山に隱れば、適に殘りたる人は、多く虎狼の心ありて、かく寡となりしを便りよしとや、言を巧みていざなへども、玉と碎けても瓦の全きにはならはじものをと、幾たびか辛苦を忍びぬる。銀河秋を告ぐれども君は歸りたまはず、冬を待ち、春を迎へても消息なし。今は京にのぼりて尋ねまゐらせんと思ひしかど、丈夫さへ宥さざる關の鎖を、いかで女の越べき道もあらじと、軒端の松にかひなき宿に、狐鵂鶹を友として今日までは過ごしぬ。今は長き恨みもはればれとなりぬることの喜しく侍り。逢ふを待間に戀死なんは、人しらぬ恨なるべしと、又よよと泣を、夜こそ短きに、と云ひなぐさめてともに臥しぬ、窗の紙松風を啜りて、夜もすがら涼しきに、途の長手に勞れ、熟く寢ねたり。五更の天明ゆく比、現なき心にもすずろに寒かりければ、衾被んとさぐる手に。何物にや籟籟と音するに目さめぬ。面にひやひやと物のこぼるるを、雨や漏りぬるかと見れば、屋根は風にまくられてあれば、有明月のしらみて殘りたるも見ゆ。家は扉もあるやなし、簀垣朽頽れたる間より、荻薄たかく生出でて、朝露うちこぼるるに、袖濕ぢてしぼるばかりなり。壁には蔦葛延ひかかり。庭は葎に埋れて、秋ならねども野らなる宿なりけり。さてしも臥たる妻はいづち行きけん見えず。狐などのしわざにやと思へば、かく荒果てぬれど故住みし家にたがはで、廣く造り作し奧わたりより、端の方。稻倉まで好みたるままの形なり。呆自れて足の踏所さへ失れたるやうなりしが、熟おもふに、妻は既に死りて、今は狐狸の住みかはりて、かく野らなる宿となりたれば、怪しき鬼の化して、ありし形を見せつるにてぞあるべき。若又我を慕ふ魂のかへり來りてかたりつるものか。思ひしことの露たがはざりしよと、更に涙さへ出でず。我身ひとつは故の身にしてと、あゆみ廻るに、むかし閨房にてありし所の簀子をはらひ、土を積みて壟とし、雨露をふせぐまうけもあり。夜の靈はここもとよりやと、恐しくも且なつかし。水向の具物せし中に、木の端を刪りたるに、那須野紙のいたう古びて、文字もむら消して所所見定めがたき、正しく妻の筆の跡なり。法名といふものも年月もしるさで、三十一字に末期の心を哀にも展たり。

    さりともと思ふ心にはかられて世にもけふまでいける命か

ここにはじめて妻の死にたるを覺りて、大に叫びて倒伏す。去りとて何の年、何の月日に終りしさへ知らぬ淺ましさよ。人は知りもやせんと、涙をとどめて立出づれば、日高くさし昇りぬ。先ちかき家に行きて主を見るに、昔見し人にあらず。かへりて何國の人ぞと咎む。勝四郎禮ひていふ。此隣なる家の主なりしが、過活のため京に七とせまでありて、昨の夜かへりまゐりしに、既に荒廢みて人も住侍らず。妻なるものも死りしと見えて、壟の設も見えつるが、いつの年にともなきに、まさりて悲しく侍り。知らせたまはば教へ給へかし。主の男いふ。哀にも聞えたまふものかな。我ここに住もいまだ一年ばかりの事なれば、それよりはるかの昔に亡せたまふと見えて、住みたまふ人のありつる世は知り侍らず。すべてこの里の舊き人は、兵亂の初に逃げうて、今住居する人は、大方他より移來たる人なり。只一人の翁の侍るが、所に舊しき人と見えたまふ。時時あの家にゆきて、亡せたまふ人の菩提を弔はせ給ふなり。この翁こそ月日をも知らせたまふべし、といふ。勝四郎いふ。さては其翁の栖みたまふ家は何方にて侍るや。主いふ。ここより百歩ばかり濱の方に、麻おほく種ゑたる畑の主にて、其所にちひさき庵して住せたまふなり、と教ふ。勝四郎よろこびて、かの家にゆきて見れば、七十可の翁の、腰は淺ましきまで屈まりたるが、庭竃の前に圓座敷きて茶を啜居る。翁も勝四郎と見るより。吾主何とておそく歸りたまふといふを見れば、この里に久しき漆間の翁といふ人なり。勝四郎、翁が高齡をことぶきて、次に京に行きて心ならずも逗りしより、前夜のあやしきまでを詳にかたりて、翁が壟を築きて祭りたまふ恩のかたじけなきを告げつつも、涙ととめがたし。翁いふ。吾主遠くゆきたまひて後は、夏の比より干戈を揮出でて、里人は所所に遁れ、弱き者どもは軍民に召るるほどに、桑田にはかに狐兎の叢となる。只烈婦のみ主が秋を約ひたまふを守りて、家を出で給はず。翁も又足蹇ぎて百歩を難しとすれば、深く閉こもりて出でず。一旦樹神などいふおそろしき鬼の栖所となりたりしを、稚き女子の矢武におはするぞ、老が物見たる中のあはれなりし。秋去り春來りて。其年の八月十日といふに死りたまふ。惆しさのあまりに、老が手づから土を運びて柩を藏め、其終焉に殘したまひし筆の跡を壟のしるしとして、蘋繁行潦の祭も心ばかりにものしけるが、翁もとより筆とる事をしも知らねば、其月日を紀すこともえせず。寺院遠ければ贈號を求むる方もなくて、五とせを過ごし侍るなり。今の物語をきくに、必づ烈婦の魂の來り給ひて、舊しき恨を聞えたまふなるべし。復かしこに行きて、念比にとぶらひ給へ、とて、杖を曳きて前に立ち、相ともに壟のまへに俯して、聲を放て歎きつつも、其夜はそこに念佛して明しける。寢られぬままに翁かたりていふ。翁が祖父のその祖父すらも生れぬ、はるかの徃古の事よ。此郷に眞間の手兒奈といふいと美しき娘子ありけり。家貧しければ、身には麻衣に青衿つけて、髮だも梳らず。履だも穿かずてあれど、面は望の夜の月のごと、笑めば花の艶ふがごと、綾錦につつめる京女臈にも勝りたれとて、この里人はもとより、京の防人等、國の隣の人までも、言をよせて戀慕ばざるはなかりしを、手兒奈物うき事に思沈みつつ、おほくの人の心に報いずとて、此浦曲の波に身を投げしことを、世の哀なる例とて、いにしへの人は歌にも詠みたまひてかたり傳へしを、翁が稚かりしとき、母のおもしろく語り給ふをさへ、いと哀なることにききしを、此亡人の心は、昔の手兒子がをさなき心に幾等をかまさりて悲しかりけんと、かたるだる涙さしぐみて止めかぬるぞ、老は物えこらへぬなりけり。勝四郎が悲はいふべくもなし。此物がたりを聞きて、おもふあまりを田舎人の口鈍くもよみける。

    いにしへの眞間の手兒奈を斯ばかり戀ひてしあらん眞間のてこなを

思ふ心の端ばかりをもえいはぬぞ、よくいふ人の心にもまさりて、あはれなりとや云はん。かの國にしばしばかよふ商人の聞傳へてかたりけるなりき。

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